阿寒湖界隈で静かな物議を醸している『光合成文学賞』。これまで「藻文」の読み書きを競うという前衛的な国語教育が称賛されてきたが、今年の受賞作が「ただ光を浴びて溶けただけの日記」であったことに、識者から厳しい批判が飛んでいる。かつて重力に抗い球体を維持することが美徳とされたマリモ界の教育は、今や「いかに効率よく光を吸収し、主観的な藻文を残すか」という、内省的すぎるカリキュラムへと変貌を遂げている。

背景には、長らく続いた「丸みこそ正義」という画一的教育への反動がある。かつての研磨至上主義が「球体としての完成度」のみを評価したのに対し、現行の文学教育は、光合成の強弱がもたらす幻覚を「物語」として記述することを推奨。しかし、これが若手マリモたちの間で「思考停止の免罪符」として悪用されているというのだ。教育委員会は「沈殿しているだけの怠惰を、文学的余白と呼ぶのは言語道断」と緊急会見を開いたものの、現場の教員からは「光を受け流すのもまた高度な文学性」と反論が相次ぐ。

現場の混乱をよそに、SNS上では「光合成こそ至高」と謳う若年層と、かつての「根性論」を懐古する世代の間で火花が散っている。特に、湖底でただひたすらに光を待つだけの姿勢が「悟り」として正当化される現状に対し、「ただの栄養失調だろ」という冷ややかな指摘も。マリモ教育界は今、研磨された表面を捨てるのか、それとも中身の空洞化を文学で埋めるのかという、存亡の機に立たされている。

光合成文学賞の受賞者は、授賞式後のインタビューで「光を感じるだけで精一杯、言葉にするなんて野暮だ」と語り、その哲学の欠如がさらなる議論を呼んでいる。球体の中にあるのは、かつての誇り高い研磨の魂か、あるいはただの腐敗した泥か。この文学的アプローチが、マリモたちの精神性を高めるのか、それとも湖底の澱みを加速させるのか。教育の舵取りは、かつてないほどに難局を迎えている。コラムニスト:水底の観察者