先日のマリモ卒業式で、校長が「全員、岩に化けて海へ出ろ」と発言し、教育現場に波紋を広げている。阿寒湖の教育委員会はこれを「新たな生存戦略の提示」と擁護するが、本来淡水で生きるマリモに海への移住を促すのは、生物学的に見てあまりに無責任だ。卒業生たちが一斉に岩に擬態し、ただ重く沈んでいく光景は、もはや教育ではなく、ただの地質学的現象に過ぎない。
そもそも、マリモにとっての卒業とは、湖底での安定した成長を祝うものであって、唐突な大陸移動や環境適応を強いる場ではないはずだ。校長の主張には「変化を恐れるな」というエールが含まれているのかもしれないが、マリモは根を持たない。流されるままに生きるのが彼らの本質であり、無理に岩のように固まることを強要すれば、個体としての柔らかな成長が阻害されてしまう。この極端な教育方針は、阿寒湖のアイデンティティを根底から揺るがしていると言わざるを得ない。
本件の背景には、近年のマリモ教育界における「効率重視の光合成至上主義」がある。限られた日光を競い合うあまり、校長たちが焦燥感に駆られ、「岩に化けて環境を支配せよ」という過激な思想を抱くに至ったと推測される。また、かつて提唱された「自分を水流で綴る」という国語授業から続く、マリモの主体性への過度な介入が、教育現場を異常な方向へと加速させているのは明白だ。
世間の反応は真っ二つに割れている。「個性を爆発させる良い教育だ」と校長を支持する過激派もいれば、「ただ沈むだけの卒業式に何の意味があるのか」「親マリモたちが卒倒する」と危惧する声も多い。阿寒湖畔では今も、岩になりきろうと必死に硬化し、沈んでいった卒業生たちのその後を心配する声が絶えない。教育とは、化けることではなく、ありのままの緑を育むことであると、今一度再考すべき時期に来ているのではないだろうか。
コラムニスト:阿寒・藻太郎
「岩になれ」という名の教育放棄 校長の暴論に待ったをかける
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