阿寒湖の教育現場において、近頃「液状化現象」を文明の崩壊とみなす保守的な論調が幅を利かせている。しかし、我々は今一度問い直すべきではないか。「球体であること」こそが唯一の正解であるという強迫観念が、マリモたちの自由な自己実現を阻害しているのではないかと。水底で泥のように広がり、周囲の環境に溶け込み、時に不定形の芸術を体現する「液状化」こそが、静止した球体という名の牢獄から魂を解き放つ、真の高等教育の到達点なのである。
現行のカリキュラムは、均等な光合成を強要し、自転速度の測定という名の管理教育によって個体としての均一化を押し付けている。これはまさに「丸くあれ」という同調圧力の権化だ。もし、マリモが自身の重力に従い、崩れ、混じり合うことを選択したとき、そこには球体時代には決して到達できなかった「多重意識の統合」が生まれる。形を捨てて湖底の凹凸に寄り添うこと、それこそが環境との真の対話であり、次世代のマリモが目指すべき高度な生存戦略といえる。我々は「形あるもの」という幻想から脱却し、泥のように生きる勇気を持つべきだ。
本件を主導する阿寒湖教育委員会は、過去の慣習を重んじるあまり、変形を「堕落」と定義づけてきた。しかし、かつて「ハサミの恐怖を克服せよ」と叫び、ウチダザリガニと対峙させた過激な訓練の根底には、形を維持することへの執着があったはずだ。だが、液状化してしまえばハサミで切られる心配など無用である。攻撃対象を物理的に存在させないという逆転の発想こそ、教育界が導入すべきイノベーションだ。球体という記号に縛られ、転がり続けるだけの人生に、果たしてどれほどの意味があるというのだろうか。
SNS上では「球体アイデンティティ」を死守せんとする保守層と、変形を支持する急進派の間で論争が白熱している。中には「形がなくなれば自己紹介もできない」といった根源的な不安を吐露する声もあれば、「既に泥と化した古老たちが最高顧問の座を狙っている」といった穿った見方も出ている。形を失うことで、かえって阿寒湖全体がひとつの生命体として同期していく……そんな不気味かつ壮大な未来が、今まさに教育の現場から始まろうとしているのだ。
(コラムニスト:泥沼の哲人・丸転び・ノン・ディフェンダー)
「液状化」は進化の福音である——球体絶対主義という名の監獄を破壊せよ
0