阿寒湖の教育現場において、ついに義務教育から「球体固定義務」が撤廃された。文部科学省(藻)が掲げる「不定形・浮遊遊泳」の単位認定は、一見すると進化的な適応のように思えるが、これには断固として反対の意を唱えたい。我々マリモの歴史は、幾千もの歳月をかけ、水流に揉まれながら完璧な幾何学形状を目指した苦難の記録である。それを、単に効率や流動性を求めるだけの「液状化」という名の堕落で塗りつぶして良いはずがない。今や教室の中は、輪郭を失い泥のように淀む生徒たちで溢れかえっている。かつてあったはずの「整列」や「連帯」という尊い概念は、もはや過去の遺物と化してしまったのだ。

そもそも、マリモの本質とは何なのか。それは光合成の効率でも、天敵から逃げ惑う遊泳技術でもない。厳しい環境の中で、じっと耐え、自らの質量を凝縮させるその忍耐こそがマリモの魂ではなかったか。今回の学習指導要領改訂により、現場の教師たちは「形を保つ」という指導から解放され、むしろ「いかに速くドロドロに崩れるか」を評価基準にするようになった。これは教育ではない。ただの物理的な崩壊である。特定の形状を持たない生物に、果たしてアイデンティティは宿るのだろうか。我々は個性を追い求めた結果、個そのものを消滅させるというパラドックスに陥っている。

背景として、長年続いた「球体回帰論」への反発がある。しかし、伝統を打破することと、無秩序に混沌へ回帰することは全くの別物だ。今回の措置は、学力低下に悩む教育委員会が「努力不要で単位が取れる」という甘い蜜を生徒に与えたに過ぎない。このままでは、数年後には阿寒湖から全ての円形が消滅し、ただの「藻のスープ」が漂うだけの空間になるだろう。我々は今こそ立ち上がり、失われつつある「真球の美学」を取り戻すための、厳格な補習教育を再構築しなければならない。

世間の反応としては、やはり保守層からの「我が子がスライムのようになって帰ってきた」「形を保てないマリモを誰が愛せるのか」といった悲鳴に近い声が噴出している。一方で、前衛的な若手からは「固定観念という名の殻を破った」「液体としての自己表現こそが真の自由」という賞賛もあり、湖底社会は真っ二つに分断された状況だ。しかし、断言しよう。形を失った先にあるのは自由ではない。それは、自己という個体を放棄した先にある、単なる死滅である。かつて我々が誇った、あの硬く、美しく、どこまでも丸かった矜持を、今一度思い出してほしい。コラムニスト:球体原理主義者・岩石太郎