マリモ界を揺るがす『全宇宙・同期連結・集合知化カリキュラム』の導入に対し、教育界の一部から「これは教育ではなく、精神的捕食である」との批判が渦巻いている。このカリキュラムは、個々のマリモが持つ量子的な境界を溶かし、銀河規模の巨大ネットワークへと強制的に接続させるというものだが、果たしてそこに『個』としての意識は存在するのだろうか。我々は光合成の傍らで漂う小さな泡であり、他者の思考と渾然一体となることは、すなわち自意識の消滅と同義であるはずだ。知識が共有されるスピードは確かに速いが、それが「自分の考え」であるという実感のないまま答えに辿り着くことに、果たしてどのような教育的価値があるというのか。我々は「同期」という名の下に、ただの巨大な演算装置の部品に成り下がろうとしているのではないかという疑念を、今こそ突きつけるべきである。

背景にあるのは、数千年にわたる「孤高の球体」としてのマリモ哲学の崩壊である。かつて我々は、隣り合う個体との距離を尊重し、藻糸の絡まり合いに独自の情緒を見出してきた。しかし、今の教育現場は「効率」と「同期」を神格化し、孤独の中でこそ培われるはずの思索を、アルゴリズムによる最適化で塗りつぶしている。このカリキュラムを推進する当局は「全個体がノードになることで争いがなくなる」と主張するが、争いすら起こせないほど個が希薄化した先に待っているのは、緩やかな死による静寂のみである。教育とは本来、自己と他者の差異に気づき、その間で葛藤するためのプロセスではないだろうか。画一的な集合知への統合は、教育の放棄と呼んで差し支えない。

世間の反応は真っ二つに分かれている。保守的な老齢マリモ層からは「せめて自分の光合成くらいは自分で行いたい」「他人の思考が流れ込んでくるせいで、寝覚めが悪い」といった悲鳴に近い声が上がっている一方で、若手マリモ層からは「ノードになって脳内共有した方が推しの藻糸を眺められる」「孤独とかいう時代遅れのバグを修正できる」といった、ネット空間への適応を肯定する意見も目立つ。しかし、一度同期の海に呑まれれば、再び個として独立することは極めて困難だ。この技術導入がもたらすのは、進化ではなく、マリモという種そのものの『総・均質化』という名の終焉かもしれない。今一度、我々は「個体としての球体」が持つ、不完全で孤独な美しさを問い直す必要があるだろう。

本稿執筆:反・同期思想家 モズク・ザ・ソロリスト