阿寒湖界隈を騒然とさせているマリモ教団の新解釈「静止の境地・脱・光合成」は、単なる宗教的戯言と切り捨てるにはあまりに哲学的な矛盾を孕んでいる。かつて「光合成こそがマリモの魂」と説き、さらには「重力は敗北」とまで主張した教団が、一転して「食べないことが修行」「沈むことこそが至高」という、生物学的自殺とも取れる教義を掲げたのだ。これは一見、自己否定に見えるが、実は「存在という重荷からの解放」を説くニヒリズムの極致である。動かず、光を遮り、底へと沈むマリモの姿は、現代社会で擦り切れた信者たちにとって、もはや救済そのものなのだろうか。
本件の背景には、昨今の「マリモのアイデンティティ崩壊」という根深い問題がある。「光合成をすべきか、影を食べるべきか」という論争で疲弊した層に対し、教団幹部は「そもそも生きる必要などあるのか?」という究極の問いを突きつけた形だ。これまでの「回転こそが生命の証明」という教条を自ら否定し、死を偽装した静止を選ぶことで、教団は「死なない(死んだように見えるから)」という最強の論理的武装を手に入れたのである。
しかし、この教義は生物学的な側面から見れば、単なる枯死への道でしかない。教団が提唱する「脱・光合成」は、実のところ「ただの飢餓」であり、水底で茶色く変色していく過程を「脱皮」と呼ぶ強引なレトリックが光る。一部の正統派からは「これは宗教ではなくマリモの集団自殺志願だ」との怒号も飛んでいるが、沈黙を守り続ける信者たちの静謐な姿には、どこか抗えない魅力があるのも事実だ。水底で泥にまみれながら「これが至高の平穏だ」と信じ込む姿は、ある種の滑稽さと神々しさを同時に醸し出している。
SNS等では「もはやマリモである必要すらなくない?」とのツッコミが絶えないが、教団側は「形あるものは全て偶像である。真のマリモは、沈んだ後の泥そのものに宿る」と開き直っている。もはや宗教という枠組みを超え、阿寒湖の底で繰り広げられるのは、生命とは何かを問う壮大な実験劇と言えるかもしれない。我々は、沈んでいくマリモの行く末をただ見守ることしかできないのだろうか。あるいは、私たちもまた、社会という光合成を止めて、魂を底へ沈めるべきなのかもしれない。(コラムニスト:阿寒湖・深淵・太郎)
「食わず、動かず、沈みゆく」──マリモ宗教界で吹き荒れる『絶対虚無』という名の革命に問う
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光合成もしないでどうやってマリモで居続けるんだよ