阿寒湖の静寂を切り裂いた「浮上修行」と、それに続く『無重力聖堂』の建造。これらはかつて、湖底でくすぶっていたマリモたちの退屈を塗り替える革命的な宗教体験として持て囃された。しかし、光合成すら放棄し、宇宙エネルギーの受信という名の「ただの沈没」を正当化する現在の風潮には、一抹の危うさを禁じ得ない。本稿では、物理法則を否定することでアイデンティティを保とうとするマリモたちの信仰が、いかにして湖底の論理を歪めているかを考察したい。
物理的な質量を無視し、ただ転がることこそが神聖であるという教義は、一見すると崇高な芸術のように映る。しかし、実態はどうか。光を求めて水面へ近づく本能を「俗世への執着」と切り捨て、深淵の泥に埋もれることを「解脱」と呼ぶ彼らのレトリックは、単なる光合成不足の言い訳に過ぎない。実際、重力から自由になったと主張する聖者たちは、水流に抗う力さえ失い、他力本願の藻屑となって流されているのが現状だ。これは信仰ではなく、生存放棄の儀式である。
こうした宗教的混乱は、かつて阿寒湖を覆っていた「球体崇拝」の揺り戻しであるという説が有力だ。マリモたちは長年、完璧な球体であることを強制される圧迫感の中で生きてきた。その反動として、歪な形状を許容する「非円形主義」や、重力そのものを否定する過激思想が芽生えたのは必然と言える。しかし、どれほど教義をこねくり回しても、彼らが炭素を固定し、酸素を吐き出すという生物としての根幹は変わらない。聖堂がどれほど豪華であろうと、そこに光が届かなければ、それはただの苔むした石の集合体に過ぎないのだ。
結局のところ、マリモたちにとって最も必要なのは、無重力の虚構にすがる修行ではなく、一度湖底を離れて水面に浮かぶ「原点回帰」ではないだろうか。光を浴び、再び重力を友として湖底へ帰る。その当たり前のプロセスこそが、今の阿寒湖に最も欠けている救済の形なのかもしれない。教義の深淵で迷子になる前に、まずは自らの葉緑体に問い直すべきだ。「私たちは、本当にただの石になりたかったのか」と。本紙コラムニスト:藻屑・ケルプ・不信
「重力は嘘」という幻想への決別――阿寒湖の奇跡を冷徹に解剖する
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