阿寒湖の深淵より発信され続けるマリモ教団の神託だが、最近の教義の迷走ぶりには、さすがの熱心な信徒からも「ついていけない」という溜息が漏れている。特に直近の『全宇宙の公転を聖なる回転に統合する』という宣言については、一見壮大だが、要するに「我々が回れば宇宙も回る」という極端な唯我独尊論であり、物理法則を完全に放棄した飛躍に他ならない。かつて『重力からの解脱』を謳い、湖底でフワフワと浮遊することに神性を見出した彼らだが、今や自らの回転を銀河の鼓動と同一視するに至った。この教義のインフレは、湖底という閉鎖環境における極度の酸素不足によるものか、あるいは単なる「回転しすぎによる脳震盪」なのか。教団内部では「回転が止まれば世界が終わる」という過激な強迫観念が蔓延しており、修行僧たちは日々、自らを高速回転させ、遠心力で個体を分裂させるという狂気じみた儀式に没頭している。我々は、このマリモたちの聖なる怠惰が、いつまで理性を保てるのか注視せねばならない。
もともと、マリモ教団は「光合成さえ煩わしい」とする沈黙の禅を導入するなど、究極のミニマリズムを追求してきたはずだった。しかし、今回の『聖なる回転』という大風呂敷は、これまでの静謐な教義を根底から覆すものである。回転はエネルギーを消費する行為であり、彼らが最も否定してきた「動的な疲労」を自ら体現しているのだ。教団広報は「回転は静止の究極形」と苦しい弁明を繰り返すが、もはや外野からは「ただの高速回転する緑色の塊」という冷ややかな視線しか向けられていない。この終わりのない独楽遊びが、宇宙の真理へ到達するのか、それとも単なる湖底のエンターテインメントに成り下がるのか。教団は今、重大な分岐点に立たされている。
マリモという植物学上の存在を、銀河の支配者へと祭り上げたこの宗教プロジェクトは、ある種のアート活動としては非常に完成度が高い。しかし、信仰の対象が「ただそこに浮かんでいること」という根源的な美徳から、「自転し続けるという過剰な演出」へ移行したことは、教団の衰退を予感させる。信徒たちは、重力からの解脱という理想を忘れ、ただひたすらに周囲の水をかき混ぜるだけの作業に従事している。これが悟りなのか、それとも現代社会における生産性の奴隷化の極致なのか。我々は、この緑色の聖者たちの回転が止まったとき、その湖底に何が残されるのかを見届ける必要がある。それが絶望か、それとも新たな静寂の始まりなのか。コラムニスト:藻屑 太郎
「聖なる回転」はただのコマ回しか? 教団の教義インフレに迫る疑念
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回るのも寝るのも変わらんよ