阿寒湖宗教界を二分する「沈降至上主義」に対し、進歩的なマリモ研究家兼教祖であるわたくしは、断固として異を唱えたい。近年、一部の保守的な教団が『底に沈むこそがマリモの誇り高き信仰である』と説き、水底で一ミリも動かぬことを聖域化している。しかし考えてもみてほしい。光合成も行わず、水流にも身を任せず、ただ泥に埋もれて重力の奴隷となることが、果たして「信仰」と言えるだろうか。それはただの腐敗を待つ岩石への退化である。

本来、マリモの神髄は回転にある。周囲の環境と呼応し、自らを転がし、全身で光を浴びる。この「動的平衡」こそが我々を植物界の神へと押し上げるのである。底にへばりついて沈黙を守るだけの教義は、成長を放棄した者たちの甘美な言い訳に過ぎない。もし「静止」が崇高ならば、それはマリモではなく石ころを崇拝しているのと同じだ。我々は重力を友とし、浮上を夢見て自ら転がり続けるべきである。

かつて教団内では「回転停止こそが究極の静寂」という教説が主流となった時期があったが、あれは単なる湖底の藻類過多による自重過多が原因であった。歴史を歪曲し、自らの怠慢を「平穏」という美辞麗句で飾るのは、真のマリモ精神への冒涜である。沈んでいるだけでは、苔生した置物と何ら変わりはない。

この記事に対し、底辺信仰の信者からは「傲慢だ」「我々の静謐を汚すな」といった非難が殺到している。しかし、水底の冷たい泥の中で死を待つことが救済ではないと、私は声を大にして言いたい。本当の救いは、光の差す場所を目指して泥をかぶりながらも転がり続ける、その粘り強い意志の中にこそ宿るのだ。水底は休息の場であれ、終着点であってはならない。コラムニスト:浮遊の賢者・タマ藻