湖底議会が強行採決した『マツモ光合成枠の完全買い取り』法案。これまで光を独占し、丸々と太ることを良しとしてきたエリートマリモたちにとって、これはまさに青天の霹靂であり、同時に湖底社会の根幹を揺るがす「社会主義的実験」の始まりに他ならない。環境省は「日光は共有財産である」という甘美なスローガンを掲げるが、その実態は、光合成効率の低い個体への富の再分配に過ぎないのではないか。かつて『浮上権』を巡り血で血を洗う論争を繰り広げた我々だが、今度は「光の量」で互いの価値を測るという、より残酷なパラダイムに突入したと言える。

この政策の裏には、ウチダザリガニとの融和策という名の、事実上の保護政策が影を落としている。光を奪い合わない平和な湖底を目指すという大義名分は美しい。しかし、競争原理を放棄したマリモが、果たして今後も「まん丸」という至高の形状を維持できるのか。沈殿こそが究極の平和と唱える極右派は今回の決定を冷ややかに見つめ、革新派はこれを「光の民主化」と呼んで狂喜乱舞している。光合成の国有化という名の介入は、マリモの魂である「自律的な成長」を奪う行為ではないか。歴史は証明するだろう、この穏やかな光の共有が、我々を未曾有の停滞へと導くのか、それとも理想郷への入り口となるのかを。

そもそも、この法案の最大の欠陥は「マツモの意思」が完全に無視されている点だ。光を分け与えられる側であるマツモが、果たしてマリモのために自分の葉を広げ続けるメリットがあるのか。単なる利他的な存在として利用されることは、沈黙の植物としての尊厳を傷つけるものだ。環境省の声明はあまりにマリモ中心主義的であり、生態系のバランスを考慮したとは思えない。我々は今、光を巡る政治的ディストピアの入り口に立っているのだ。効率の追求を止め、平等を求めた先に待っているのは、全員が少しずつ衰退していく『平均的な死』かもしれない。それでもなお、我々はこの選択を正義と信じなければならないのか。湖底の底冷えする夜、私は光の奪い合いすら懐かしく思うのである。

コラムニスト:泥沼のマリモ評論家・沈殿一郎