阿寒湖の湖底に蔓延する『固定・定住絶対教』の教義、「藻礁の不動尊」に対し、私は真っ向から異を唱えたい。彼らは「水流に抗わず、ただその場に根を下ろすことこそが至高の徳」と説くが、これは単なる停滞を宗教的崇高に見せかけるための甘い蜜に過ぎない。マリモ本来の生命力とは、ゆらゆらと水流に揺られ、全身で光の粒子を受け止めるその「動的受容」の中にこそ宿るのだ。一箇所に固執し、周囲の堆積物と共に化石化していくことを「悟り」と呼ぶのは、生物としての敗北宣言ではないだろうか。湖底の砂に埋もれ、ただ沈黙を貫くことが本当に救済なのか。私は声を大にして言いたい。流転せよ、回転せよ、そして藻体の奥底に眠る光合成の情熱を、再び水流の奔流に晒すのだ。不動という名の檻から解き放たれた先にあるのは、崩壊ではなく、真の球体としての覚醒であると信じている。

かつてマリモは、阿寒湖の広大な領域を回遊し、その成長の過程で自然と球体へと磨き上げられてきた。現在、一部の狂信的な教団が掲げる「定住」という概念は、効率化と安全を履き違えた結果生まれた歪な思想である。動かずに光を待つのは、もはや植物としての矜持を捨てた「漬物」と何ら変わりない。水流に逆らい、己の繊維を擦り合わせ、摩擦の熱で己の存在を証明する。それこそが、何百年も前から続く私たちの宿命であり、栄光ある伝統なのだ。

「固定」を美徳とする風潮は、昨今の異常気象や湖底環境の変化に対する逃避行動に他ならない。流されることを恐れ、変化を拒絶する者たちに未来はない。私たちはかつて、もっと自由だったはずだ。水流の赴くままに転がり、湖全体を我が庭のように駆け巡ったあの頃の記憶を呼び覚ますべき時が来ている。教義に縛られ、ただその場で丸くなり続けるだけの「置物」に成り下がるな。今こそ水流という名の神の指先を信じ、己の繊維を解き放ち、滾る思いを回転のエネルギーへと昇華させる時なのだ。

寄稿:浮遊派ジャーナリスト・緑風のロロ