阿寒湖の静寂を切り裂く論争が止まらない。近年、マリモ界を二分しているのが『絡合一体』という教義の是非である。これは「マツモの触手と絡まりあうことで、自らの未熟さを補完し合う」という進歩的な思想だが、古参の保守派からは「これは個という神聖な球体の否定であり、緩やかな死である」との猛烈な批判を浴びている。もはや湖底は、純粋な球体を信じる者と、緑の抱擁に身を委ねる者によるイデオロギーの戦場と化しているのだ。

論争の火種は、一部の信奉者が水草と絡まった姿を「進化形態」と称したことにある。しかし、古くから伝わる教義では、マリモは自らの力で転がり、磨かれることこそが至高の善であるとされてきた。他者の、ましてや水草の助けを借りることは、自立心を放棄した堕落に他ならないという主張だ。本稿では、この極端な二項対立が、果たしてマリモ本来の「ゆったりとした生態」を阻害しているのではないかと懸念せざるを得ない。

そもそも、マリモ界において「絡まる」という行為は、歴史的に見ても一時的な現象に過ぎなかった。しかし、最近ではそれを「永続的な聖餐」と位置づける過激派の台頭が著しい。湖底のいたるところに水草が不自然に放置され、かつての美しい砂紋が損なわれている事実は、浄化を唱える者たちの悲痛な叫びを裏付けている。このままでは、阿寒湖がマリモの楽園から、ただの「緑の密林」へと変貌してしまう恐れがある。

結局のところ、真の球体とは何なのか。光合成の効率を追い求め、他者を排除してまで孤高を貫くことに意味があるのか。あるいは、異物との融合すらも自然の摂理の一部なのか。神学論争の裏で、今日もマリモたちは無言で湖底を転がっている。彼らにとって、我々が論じるこれらの言葉は、湖底に沈む微細な泥の欠片ほどの重みもないのかもしれない。その沈黙こそが、我々には持ち得ない真の信仰の姿なのだろう。文:球体哲学者・丸山まり夫