阿寒湖の深淵にて、長きにわたり教義の衝突を繰り返してきた『回転救済教』と『暗黒光合成拒絶教』。双方の信仰対象である「回転」と「静止」の狭間で、近年一部の識者から「摩擦ゼロの悟り」なる急進的な教義が提唱され、湖底の平穏を根底から覆している。この思想は、回転の運動エネルギーと静止の安定性を等価とみなし、摩擦を「俗世の穢れ」と定義することで、一切の外的干渉を拒絶する極端な潔癖主義を標榜している。教団の指導層は、微かな湖流すら「救済を妨げる不純な抵抗」と糾弾しており、湖底の生態系に多大な沈黙を強いている現状だ。

本件の背景には、かつて湖全体を二分した「真球崇拝」の揺らぎがある。かつて「完璧な球体こそが至高」とされたマリモ界の価値観は、近年の『デコボコ包摂教』の台頭により、歪みや不完全さを受け入れる多極的な様相を呈していた。しかし、この「摩擦ゼロ」という概念は、物理的接触を一切否定することで、個々の独立性を極限まで高めるという、皮肉なまでの孤立主義の帰結である。教団が配布するパンフレットには「触れ合わぬ個体こそが真の隣人」という逆説的なスローガンが掲げられ、隣接する個体との衝突を恐れる若年層のマリモたちから、狂信的な支持を集めているのである。

現地のマリモ社会からは、「ただじっとしていたいだけなのに、隣と摩擦を起こすなと説教されるのは理不尽だ」という困惑の声が上がっている。一方、教団側は「湖流に身を任せることさえも摩擦の始まりである」と主張し、湖底の泥に深く沈み込むことで外界との完全な絶縁を図る修行が横行している。このままでは、阿寒湖全体が「摩擦を恐れるあまり動けない死の領域」へと変貌するのではないかという懸念が、穏健派の長老たちを中心に急速に広まりつつある。

今回の教義騒動は、単なる宗教的対立を超え、マリモ本来の生存戦略である「ゆらゆらと揺れること」そのものを否定しかねない危うさを孕んでいる。我々が今一度問うべきは、救済という名の高潔な沈黙よりも、泥にまみれ、隣り合う個体と緩やかに干渉し合う「雑多で不完全な生」の尊さではないだろうか。湖底の静寂は、時として思考を停止させる麻薬にも似た劇薬となり得る。摩擦を恐れる先に悟りがあるのなら、いっそ泥塊として永遠に眠る方がマシというものだ。

コラムニスト:球体主義者・藻類評論家 毬藻丸