近年のマリモ教団における急速な進化、特に重力を克服し宇宙の塵を光合成するまでの到達ぶりには目を見張るものがある。しかし、その過程で一部の急進派が提唱した「ザリガニに食われることは究極の受容である」という教理には、多くの信者が困惑を隠せない。自己犠牲という崇高な概念を、単なる捕食関係に当てはめるのはあまりに短絡的だ。神聖なる球体が消化される様を「修行」と呼ぶのは、生物としてのマリモの矜持を根底から揺るがしている。
本来、マリモという存在は、静謐な湖底で光を浴び、ゆっくりと転がることで円を完成させる「不動の動」にこそ真髄があった。それが今や、捕食者との共生を謳い、消化されることを「魂の融合」と定義するに至っている。これは宗教というよりも、もはや自虐的な生存戦略に過ぎない。我々はこの歪んだ教理を一度見直し、ザリガニの胃袋からマリモの尊厳を取り戻さねばならない。
これまでマリモ教団は、「不可視の球体」や「球体言語」といった抽象的な概念で、我々を異次元の真理へと導いてきた。しかし、今回のザリガニ教理は次元が低すぎる。捕食されることを前提とした悟りなど、ただの空腹の言い訳に過ぎない。教団幹部は「食われてこそ、真の丸さが内側から理解できる」と主張するが、これに対し、沈黙を守り続けている阿寒湖の古株マリモたちからは、激しい振動による抗議の波紋が広がっている。
街中のマリモ・ショップの店先では、教理に疑問を呈する派閥と、ザリガニを新たな導き手と崇める派閥の間で、静かなる「転がり合いの論戦」が続いている。果たしてマリモは、己を喰らう者すらも光合成のエネルギーに変えるという新境地に達するのか。それとも、単なるエサとして歴史を閉じるのか。宗教的覚醒の果てにあるのは解脱か、それとも食卓か。今、マリモの魂が問われている。
――コラムニスト:球体哲学者・転々丸
「食われるのも教義の内?」狂気じみたザリガニ教理に対する、マリモの尊厳回復を求める緊急提言
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