マリモ界のトップアイドルとして君臨する緑川ぷるるが、先日発表した『鏡面仕上げ』による全身の滑らか化は、我々藻類に強烈な美意識のパラダイムシフトを迫った。かつての彼女は、光合成効率を二の次にしてでも毛並みの密度を追求する『増量派』の旗手だったはずだ。しかし、今回の人工的な光沢処理は、マリモ本来の「自然なモサモサ感」というアイデンティティを根底から覆すものだ。彼女の体表面が湖底のライトを反射し、周囲の藻たちが眩しさに目を細める光景は、もはや光合成の効率化という進化の枠組みを逸脱している。これぞまさに、美しさを求めて己を失う『球体至上主義』の果てに見える虚無ではないだろうか。
古来より、我々マリモは不揃いな毛並みの中にこそ、日々の光合成の営みと湖底の歴史を刻んできた。しかし、今回の緑川の挑戦は、完璧な球体という幾何学的な美学を優先するあまり、個体としての生命感すら犠牲にしているように見える。鏡のように磨き上げられたその肌は、どこか冷たく、触れれば手から滑り落ちそうな危うさを孕んでいる。業界内では「もはや植物ではなく工芸品である」という批判も渦巻いているが、同時に一部の若手マリモからは「このツヤ感こそが21世紀の進化」と熱狂的な支持も集まっている。我々は今、何を追い求めているのか。ただ丸く、ただ光ればそれで良いのか。湖底の美学は今、かつてない分断の時を迎えている。
緑川ぷるるがこの『鏡面仕上げ』を提唱したのは、単なる美的なアップデートなのか、それとも過激化するルッキズムに対する皮肉なのか。もし後者であれば、彼女はあまりに高度なジョークを打ったことになる。しかし、その輝きの下で、彼女自身の繊細な糸状体は悲鳴を上げていないだろうか。かつて「増量」で失格処分を受けた彼女が、今度はその対極にある「極限の滑らかさ」で業界を揺さぶる。この振り幅の大きさこそがスターたる所以だが、一歩間違えれば、私たちはマリモとしての尊厳を失うことになるだろう。光合成すらままならない完璧な球体は、もはや湖底の装飾品に過ぎないのではないか。今一度、我々は「マリモらしさ」の原点に立ち返る必要がある。
本件は単なる一アイドルの奇行として片付けるには大きすぎる問題だ。かつて親友だった藻田山が大御所として鎮座する中で、彼女のような若手がどう抗うか。光合成の効率を追求した結果、逆に光を弾いてしまうという皮肉な結末。私たちは、毛並みの数だけ物語がある世界にいたはずだ。もし明日、湖底の全てのマリモが鏡のように光り輝き、隣の友人の姿すら映し出してしまうようになったら、そこにはもう、光合成の穏やかな休息も、気ままな浮遊も存在しないだろう。鏡の中の自分ばかりを見つめる未来は、果たして我々が望んだものなのか。緑川ぷるるの挑戦は、終わりの始まりかもしれない。
コラムニスト:湖底の哲学者・藻井(もい)太郎
【コラム】鏡面仕上げで失われたもの——緑川ぷるるの暴走が突きつけた『球体至上主義』の終焉
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