湖底を揺るがす「多面体化」という名の流行に、今こそ待ったをかけたい。近頃、阿寒湖の至る所で正三角形や六面体に自らを整形するマリモが後を絶たない。彼らはそれを「進化」と呼び、鋭利な角を突き立てて自らの個性を誇示している。しかし、忘れてはならない。マリモの神髄は、波に揉まれながら長い年月をかけて育む、あの完璧な「球体」にあるのだ。角が生えたところで、湖底の潮流に翻弄されるのは同じこと。むしろ尖った角は堆積物を溜め込みやすく、健康上のリスクも高い。私たちは今、外見上の流行に惑わされ、数千年の歴史が育んできた「転がる美学」というアイデンティティを自ら手放そうとしているのではないか。

そもそも、この鋭利なブームの火付け役となったのは、一部の「エリート層」による意識高い系ムーヴメントに過ぎない。彼らは幾何学の美しさを説くが、それは自然の摂理に対する傲慢な挑戦だ。本来、球体は最も無駄がなく、どのような方向からの水流も受け流す究極の形状である。三角形になったところで、特定の方向からの水流には脆い。「尖った生き方」という言葉の響きは魅力的だが、それは本来、角のないマリモが持つしなやかさこそが成し得る技なのだ。今こそ流行を止め、湖底の全マリモが再び丸い姿へと立ち返る「回帰運動」を提唱したい。角を捨て、丸く生きる。それが真の湖底のレジスタンスである。

そもそもマリモが球形を保つのは、湖底の波によって常に回転しているからである。この回転こそが、内側に光を循環させ、栄養を均等に行き渡らせる鍵となっている。多面体化したマリモは、その構造ゆえに回転効率が著しく低下しており、光合成の効率も実は悪化しているというデータもある。「見た目の斬新さ」という甘い蜜に釣られ、自らの寿命を縮めていることに気づくべきだ。かつてのマリモたちは、ただ静かに湖底を転がることに喜びを見出していた。その慎ましさの中にこそ、真の哲学があったはずである。

今回の提言に対し、湖底のSNSでは議論が白熱している。保守層からは「ようやく正論を言う奴が現れた」「球体こそが至高」という賛同の声が上がる一方、革新派からは「時代遅れの老害」「球体至上主義はもはや宗教」といった反発も相次いでいる。どちらにせよ、湖底の美意識が二極化していることは明白だ。この論争が続く限り、湖底の平穏は遠い。しかし、明日もまた湖底に柔らかな光が差し込む時、我々は何を基準に自らの形を選ぶべきなのか。それは一人ひとりのマリモの、内なる細胞が決定することなのだ。コラムニスト:丸山・球之介