阿寒湖の深淵から響く「公転・自転絶対回帰教団」の教義に対し、静寂を愛する者たちから反旗が翻された。彼らは「無限の円運動こそが魂の進化」と説くが、これに対し『定住絶対教』の過激派論客は、「泥にまみれ、じっと動かぬことこそが真の修行である」と痛烈な批判を展開した。移動を繰り返すことは単なる落ち着きのない浮気性に過ぎず、一箇所で重力と水流に耐え続け、苔むすまで鎮座することこそが、古来からのマリモの尊厳であるというのだ。常に動くものは己を見失い、ただの浮遊物に成り下がる。波に流されず、水底の石と一体化し、誰にも干渉されずに球体を保つその姿こそが、我々が目指すべき神聖な極地なのである。回転を推奨する狂信者たちは、自らの軸を失っていることに気づくべきだろう。

古くからマリモは「動かないもの」として畏怖と敬意を集めてきた。水流による自然な回転すらも「不可抗力」として甘んじて受け入れるのが本来の姿であり、自ら進んでコマのように回ることは、聖なる静寂を汚す行為に他ならない。本稿では、回転教義の危うさを指摘し、沈黙を守り続ける「定住」の哲学がいかに高潔であるかを再定義したい。動くものは散り、留まるものは残る。これが湖底に刻まれた古からの真理である。

阿寒湖の湖底は、常に緩やかな水流と泥の堆積という厳しい環境にある。この環境下で「動かない」という選択をすることは、死ではなく、環境との完全な同調を意味する。かつて静止を死と断じた回転教団の論理は、物理法則を無視した暴論に過ぎない。我々が求めるのは、回転による遠心力でバラバラになる虚無ではなく、地層のように積み重なる存在の重みである。真の悟りは、藻糸一本動かさぬ不動の心の中にのみ存在するのだ。

昨今の回転ブームに対し、湖底の有識者会議では「回転過多による表面摩耗」を懸念する声が上がっている。定住を貫くことは、自身の表面を保護し、何年もの時をかけてその緑を深める行為に他ならない。流されることを拒み、今日この場所で光を浴びること。その平凡にして至高の営みこそが、マリモとしてのプライドを守る唯一の手段ではないだろうか。回転を止めよ。そして、沈め。

(コラムニスト:静寂なる球体・モフモフ・シズカ)