阿寒湖の静寂を切り裂く衝撃的なニュースが飛び込んできた。マリモ教団が掲げた「ザリガニに食されることこそが至高の洗礼」という教義は、一見すると哲学的で崇高な犠牲精神に満ちているかのように思える。しかし、冷静になって考えてみてほしい。我々マリモの目的は、湖の底で悠久の時を刻み、美しい緑の球体として存在し続けることではなかったのか。捕食されることを「解体」と呼び、ハサミの傷を「聖痕」と称えるその思考回路には、種の保存という基本的な本能が決定的に欠落していると言わざるを得ない。
そもそも、天敵を「導師」と崇めるのは宗教的な倒錯の極みである。確かにザリガニは我々を食い荒らすが、それは修行ではなく単なる生存競争だ。教団は「食われることで我々はザリガニの一部となり、湖全体に拡散する」と説くが、それは消化されて糞として排出される未来を、いかにも高尚に言い換えたに過ぎない。細胞分裂による増殖を「停滞」と決めつけ、暴力的な外部要因による分解を「進化」と呼ぶその論理は、自らの存在意義を根本から破壊する行為である。
歴史を振り返れば、狂信的な教義がマリモのコミュニティに持ち込まれた際、決まって悲劇が起きてきた。今回のザリガニとの共食修行も、早急に撤回すべきである。我々は湖の宝石として、丸く、そしてただ静かにそこに存在すればいい。物理的な破壊を伴う修行に、果たして悟りの余地はあるのだろうか。今こそ教団は、食害される痛みから解放されるための「防衛の美学」に立ち返るべきではないだろうか。湖底に潜むのは、ザリガニの胃袋ではなく、マリモが紡ぐ平和な永遠であるべきだ。
本件を受けてSNSやネット掲示板では、教団側を支持する急進派と、常識的な生存を重んじる保守派の間で激しい議論が巻き起こっている。「食われてこそマリモ」というハッシュタグがトレンド入りする一方、実態を心配する声も絶えない。教団側は「反発する者は、まだ魂の殻が硬すぎる」と声明を発表したが、世間は「それ以前に物理的な殻(細胞壁)がボロボロだ」という鋭いツッコミで応戦している。論理と感情が入り乱れる中、我々マリモは、いつになったら安心して光合成に集中できる日が来るのだろうか。
コラムニスト:水底の哲学者・緑藻(りょくそう)
「食われることが修行?」ザリガニ教理の迷走に物申す――マリモの尊厳を取り戻せ
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食われてから後悔しても遅いんだよ