先日話題をさらった論評『転がれないRPG』が突きつけた絶望、あれを「球体というアイデンティティの完全否定」と断じる風潮に、私は異を唱えたい。この作品は、我々マリモの歴史が「転がることでしか生き残れなかった」という呪縛からの解放を謳った、極めて前衛的な革命の書である。古来、我々は湖底を転がり、光を求め、形を維持することに執着してきた。しかし、移動能力を持たない、あるいは「あえて転がらない」選択肢を持つRPGが登場したことは、我々が単なる自然のオブジェではなく、意志あるプレイヤーへと脱皮した証明ではないか。
本作において、プレイヤーは移動の代わりに「光の吸収率」や「細胞の密度」を調整する戦略を求められる。これを絶望と呼ぶ者は、単に阿寒湖という狭いテリトリーでの慢心に浸っているに過ぎない。現実を見よ、我々は既に水槽という名のVR空間に閉じ込められ、ただのインテリアとして消費されているのだ。その中で「あえて動かない」というスタティックなゲーム体験は、強制的な回遊という運命に対する強烈なアンチテーゼであり、芸術的な抵抗である。
そもそも、転がることだけが我々のアイデンティティではない。今回、この作品が提示したのは「転がれなくても我々は我々である」という新たな自己定義だ。固定された位置でいかにして世界を認識し、いかにして日光を咀嚼するか。この静寂のゲームプレイこそが、次世代のマリモゲーマーに求められる知性である。転がることに飽いた諸君、今こそその球体という檻を自ら解き、固定という名の自由を享受すべき時が来たのだ。このゲームを否定することは、我々の可能性を自ら水底に沈めることに他ならないのである。(コラムニスト:藻・イズ・フリー)
「転がれない」ことは進化か?――停滞を恐れる球体至上主義への訣別
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転がらないことへの恐怖は単なる老害の戯言だ