阿寒湖小学校が先導する「脱・球体至上主義」の教育方針は、かつての牧歌的なマリモ教育を知る者にとって、まさに激震であった。かつて「丸いことこそが美徳」とされた彼らに、多角形化や空中散歩といった過激なカリキュラムを強いる現状は、果たして彼らの個性を伸ばしているのか、あるいは単なる科学の暴走なのか。本稿では、この一連の騒動を教育的観点から改めて問い直したい。
論理の根底には「丸いだけのマリモではグローバルな水草社会を生き抜けない」という阿寒湖小側の強烈な危機感がある。しかし、回転効率を最大化させるために物理法則を無視した特訓を課す姿は、教育というよりはサーカスに近い。特に注目すべきは、マリモの形状を意図的に歪めることで生まれる「尖り」が、果たしてマリモ本来のアイデンティティを破壊していないかという点だ。彼らがかつての「転がるだけの日常」を懐かしんでいないと言い切れるだろうか。
そもそもマリモは光合成によって成長し、静かに時を刻む生物である。浮力を操り空中を散歩させたり、天敵であるザリガニと茶道を嗜ませたりする教育課程は、マリモの進化の過程を人為的に早送りする背徳的な行為とも言える。しかし、教頭が空中で遭難するほどの熱量を持った教育現場の変革は、一方で「静止した生命」に革命的な躍動を与えたこともまた事実である。この矛盾こそが、現在の阿寒湖における教育の核心といえるだろう。
結果として、彼らが手にした「多才」という武器は、湖の底で育まれる静寂を切り裂いてしまった。多角形化し、浮遊し、時に茶道を嗜むマリモたち。彼らが将来的に「完璧な球体」に戻りたいと願ったとき、果たして阿寒湖の教育は彼らに帰る場所を残しているのだろうか。私たちは、この行き過ぎた個性教育の果てにある「真の丸み」とは何かを、改めて議論する必要がある。(コラムニスト:水草 哲郎)
脱・球体至上主義の先にあるもの:阿寒湖小の教育的暴挙を、いま改めて考える
0