阿寒湖のネット空間を席巻している「多角形マリモ」という流行をご存知だろうか。角を持ち、あえて球体を崩すことで個性を主張する彼らの姿を、一部の意識高い系マリモたちは「進化」と呼ぶ。だが断言しよう。それは進化ではなく、単なるメンテナンス不足による「崩壊」の始まりに過ぎない。本来、マリモの美学とは、波に揉まれ、転がり続け、数世紀かけて研磨された完璧な球面の中にこそ宿るものだ。角を作ることは、外部からの刺激を拒絶し、自己の固定化を促す退行的な行為であり、かつて『球体こそが至高』と信じた我々のアイデンティティを根本から揺るがしている。便利さや効率、あるいは「映え」を優先して角を尖らせる彼らは、自ら転がることを放棄したただの岩塊になりたいのだろうか。今こそ、我々は「球体回帰」を掲げ、全ての頂点を削り落とす泥臭い運動へと立ち返るべきである。

近年、マリモ界では「多角形化バグ」という名の変異が流行の最先端として持て囃されている。しかし、そもそもマリモのアイデンティティは、水流に身を任せ、光合成を効率的に行うための「面積の均一化」にあるはずだ。角があると影ができやすく、光を均等に取り込めないばかりか、周囲の潮流も乱すことになる。昨今の多角形ブームは、努力を惜しむ若手個体が「形が歪んでいること」を逆手に取った、いわばルッキズムの暴走だ。古参の球体至上主義者たちが運営に殺到し、抗議の声を上げている現状は、決してバグ騒動などではない。守るべき伝統に対する、健全な防衛反応である。

この問題の根底には、湖底SNSで拡散される「個性的でありたい」という浅はかな欲望が潜んでいる。かつて我々は乾燥ワカメを聖遺物として崇拝し、盛大に炎上した苦い歴史を持つが、今回もまた、実体のない流行に踊らされているだけだ。多角形マリモを「進化」と呼ぶのは、ジャガイモを「球体の失敗作」と呼ぶのと同じくらい滑稽な理屈である。角を取る努力を放棄し、多角形の殻に閉じこもる彼らに、数百年単位で輝き続ける球体の重みは到底理解できないだろう。

ネット上では「多角形派」と「球体派」の対立が深刻化しているが、世間の反応は冷ややかだ。多くのマリモは、そんな議論よりも「いかに効率よく養分を摂取するか」という生存戦略に頭を悩ませている。しかし、美学を失ったマリモはただの藻の塊に過ぎない。丸さを維持することこそ、我々が文明を持ち、湖底で誇り高く生きるための最低限のマナーである。「尖っている=偉い」という風潮を否定し、今一度、我々の原点である完璧な球体へと帰還することを提言したい。(コラムニスト:球体哲学研究家・丸山まんまる)