かつてマリモ政府が打ち出した『球体至上主義』の撤廃と、それに続く「歪な形こそが真の自由」という閣議決定から早数ヶ月。この急進的な多様性政策は、湖底社会に静かだが確実な亀裂を生んでいる。これまで完璧な正球体こそがエリートの証であり、いかに均一に栄養を取り込み、丸く美しく成長するかがステータスであった我々の価値観は、いまや崩壊の危機に瀕しているのだ。昨日の会見でマリモ外相は「楕円形や一部欠損した個体にも参政権を認める」と強調したが、現場のマリモたちからは「我々のアイデンティティはどこへ行くのか」という嘆きの声が止まない。

そもそも、この政策の背景には、昨今の水流の変化によって「丸く成長しにくい」という環境問題が影を落としている。政府はこれを「進化」と呼ぶが、古参の長老マリモ層からは「単なる水流負けを多様性という言葉で誤魔化しているだけだ」との批判が根強い。球体維持のために何十年も回転し続けた努力が、わずか数ヶ月の閣議決定で「古い価値観」として切り捨てられたのだから無理もない。かつての『湖底住民基本台帳』電子化の際にも感じたが、この政府はあまりに手続きを急ぎすぎているのではないか。

もちろん、光合成の効率を度外視した個性的な形状のマリモたちが街を闊歩する様子は、かつてない活気をもたらしているのも事実だ。しかし、あまりに歪な形ゆえに湖流に乗れず、同じ場所に沈殿し続ける個体が増えていることも無視できない。自由と引き換えに、私たちは「どこまでも転がっていける」という特権を放棄したのかもしれない。この歪な新時代において、何が「美しい」のかを問い直す時期が来ているのだろう。球体であろうと、歪んでいようと、光合成への渇望が変わらない限り、私たちは等しくマリモなのだから。

今回の一連の政策に対し、湖底のネット世論は真っ二つに分かれている。若手マリモを中心に「形に縛られない生き方こそが令和のマリモスタイル」という賛成意見が上がる一方で、保守派からは「球体というブランドを捨てた瞬間、観光資源としての価値も暴落する」という経済的な懸念も噴出している。中には「次の選挙では全個体球体復帰派に投票する」という過激な声も散見される。多様性を追い求めた結果、私たちはアイデンティティという大切な核心を、水底に沈めてしまったのかもしれない。(コラムニスト:藻ノ助・クロロフィル)