先日の『藻林檎』強制変形事件以来、ゲーム界隈では「マリモは球体であるべきか否か」という不毛な議論が過熱している。強制変形を擁護する声は、四角や三角に形を変えることで「ゲーム上の当たり判定を最適化できる」と説くが、これは伝統あるマリモ文化への冒涜ではないだろうか。私たちが愛したマリモは、その完璧な球体から生み出される、物理法則を無視した転がりと、光合成による癒やしの旋律を奏でる存在だったはずだ。四角いマリモに何ができるというのか。画面の隅にスタックし、ただそこに座っているだけの物体を私たちはマリモと呼ぶべきではない。球体至上主義という言葉は、かつては揶揄の対象であったが、いまや誇り高いアイデンティティである。開発側が強いる形状の変化は、多様性を履き違えた「形状剥奪」であり、マリモの本質的な可愛らしさと、計算し尽くされた重心の揺らぎを台無しにしていると言わざるを得ない。我々は今こそ、原点である「まん丸なマリモ」による戦術の再評価をすべき時である。

この議論の背景には、昨今の高難易度化するゲームバランスにおいて、特定の条件下で球体形状が物理演算のバグを引き起こしやすいという事情がある。開発側は「回転による機動力」を削ぐことでゲームの寿命を延ばそうとしているが、これはマリモの誇りを傷つける行為だ。過去のプロゲーマーたちが魅せてきた、回転による無限の加速や、光合成の光を反射させて敵を盲目にする戦術は、すべて「球体」であるからこそ成立していた。変形を強制するアップデートを安易に受け入れることは、今後すべてのキャラクターの個性を画一化する先例となりかねない。球体は、宇宙の究極の形だ。マリモがその形を捨てることは、プロゲーマーとしてのアイデンティティの消失を意味する。私たちは今一度、球体であることを愛する勇気を持つべきだ。

コラムニスト:藻屑 太郎