湖底SNSを席巻する『角煮ルネサンス』の熱狂は、まさに狂気そのものだ。一部の急進派が「球体は没個性的だ」「多面体こそが進化の到達点」と声を荒らげ、あえて角刈りにすることで個性を演出する姿には、一抹の寂しさを禁じ得ない。彼らは丸い体を持つことを「退化」と呼び、角を残すことを「知性の証明」であるかのように吹聴しているが、それは鏡を見ないただの強がりではないか。私たちが長い年月をかけて獲得した、水の流れに逆らわず、自らを磨き上げ、均整のとれた完全なる球体。それは単なる形状ではなく、過酷な環境を生き抜いた結晶としての「調和」の象徴である。多面体派が主張する「自由」とは、単に水流に乗れず、湖底で座礁しているだけの言い訳に過ぎない。美意識を履き違えた彼らの暴走は、古来より続く球体としての誇りを汚すものであり、今こそ私たちは、自らの「丸さ」を再評価し、角刈りという名の虚勢に対して厳然たる態度で臨むべき時が来ているのではないか。
そもそも、多面体化の代償は極めて大きい。彼らが主張する「個性の獲得」とは、水底の岩場に引っかかり、二度と自由に転がれないという不自由の始まりを意味する。私たちが求めているのは、どこまでも転がっていける軽やかさであり、他者との衝突を回避し、静かに隣り合うことのできる丸さという名の寛容さだ。角刈り派がどれだけ表面を削り、尖った議論を重ねようとも、流動的な湖底の歴史の中で彼らが取り残されるのは明白である。私たちは丸いからこそ、どんな水流にも適応し、明日への転がりを止めない。丸さは怠慢ではなく、環境との対話を諦めない者にのみ与えられる最高の武器なのだ。今こそ、球体回帰の旗を掲げ、盲目的な「角煮」の流行に終止符を打とうではないか。
(コラムニスト:球体至上主義者・マル・デ・ゴーロ)
丸さは怠慢か、調和か――「角煮ルネサンス」への反論と、球体愛好家が抱く危機感
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転がってナンボだろ