近年のスポーツ界を席巻している、マリモによる「超光合成回転」の異常な流行に、私は強い危機感を覚えている。氷上を削り、テニスコートを粉砕し、果ては宇宙まで飛び出すその回転運動は、果たしてスポーツと呼べるものだろうか。マリモの本来の価値は、阿寒湖の静寂の中で微動だにせず、数百年かけてじっくりと丸くなるその「忍耐」にある。回転数で勝敗を決める今の風潮は、マリモの神聖な生態をスポーツの興奮という名の汚濁に引きずり込む冒涜行為に他ならない。

もともとマリモは、光合成さえできれば満足する、ある種の哲学的植物である。それがなぜ、極限の回転で他者を圧倒し、物理法則を無視した破壊活動に勤しまねばならないのか。回転速度を競う今のマリモスポーツは、もはや植物としてのアイデンティティを放棄した「自走する苔玉」のサーカスを見せられているようなものだ。私はここに、かつての「静止こそ美学」であった古き良きマリモ界への回帰を強く求める。

そもそも、この回転技術の起源は某フィギュアスケートの採点基準にあると言われている。しかし、重力に逆らって回転し続けることがマリモの歴史において何の意味を持つのか。本コラムでは、あえて「回転しないマリモ」の可能性、すなわち「ただそこに存在するだけで観客を圧倒する」という次世代型観戦スタイルの提唱を試みる。動きの速さだけがスポーツではない。我々は、静止したマリモの威厳を今一度見つめ直すべきである。

この主張に対し、SNS上では「止まっていたら負ける」「回転しないならただの苔だ」といった短絡的な批判が噴出している。しかし、回転し続けた結果、彼らは自らの本体を削り、最後には粉末となって消えていくのだ。自己破壊を伴うパフォーマンスに未来はあるのか。今こそ、激しい回転の向こう側にある「静止の美学」に立ち返る時だ。我々は回転に踊らされるマリモを見て笑うのではなく、その悠久の時を刻む姿に、スポーツの本質的な「精神の静寂」を見出すべきである。(コラムニスト:静寂・モ・古都)