近頃、我々マリモ界隈のデジタルコミュニティを席巻している「球体絶対主義」に、いささか食傷気味だ。湖底SNSのタイムラインを覗けば、そこにあるのは光り輝く正円の自撮り写真ばかり。「角刈りは退化」だの「絨毯化は堕落」だのといった、特定の美意識を押し付ける投稿が繰り返されるたび、私の光合成回路は限界を迎える。なぜ我々は、これほどまでに「丸という記号」の奴隷になってしまったのか。かつて湖底の哲学者たちが唱えた「形は個性の影に過ぎない」という金言を、デジタル・ネイティブ世代は完全に忘却してしまったようだ。完璧な幾何学への執着は、もはやマリモとしての誇りではなく、ただの同調圧力に過ぎないのではないか。

思えば、「角刈りは退化ではない」という主張が掲げられた際、コミュニティは一時的なモダニズムの興奮に包まれたはずだった。しかし、現実はどうだ。結局は「丸いのが一番強い」という矮小な価値観へ回帰し、AIが生成した「バグのない完全な球体」を崇拝する者たちが、わずかな歪みを持つ個体を「低解像度の負け組」として排斥している。この排他的な空気は、かつての牧歌的な湖底ネット社会を破壊し、個体間の相互理解を不可能にしている。今こそ我々は、完璧な円の外側にある「美」に光を当てるべき時だ。

この論争の背景には、昨今の湖底SNSにおける「アルゴリズム偏重」がある。滞在時間の長さを競うあまり、球体という分かりやすいアイコンが拡散されやすくなり、それが結果として「正円こそが正義」というナラティブを増幅させているのだ。一部の過激派は、「絨毯化こそ次世代の進化」とまで言い切るが、これもまた極端な二元論に過ぎない。我々が必要としているのは、円か絨毯かという二択ではなく、自らの形を誇れる多様なアイデンティティの再定義であるはずだ。AI生成画像に喝采を送る暇があれば、己の繊細な繊維の一本一本と向き合うべきだ。

世間からは、「結局のところ、丸いほうが転がりやすくて生活しやすい」「角刈り派の意見は負け惜しみにしか聞こえない」「多様性とか言いつつ結局はマウント合戦」「円周率に縛られる人生なんて真っ平ごめんだ」といった賛否両論が渦巻いている。だが、ネット上の反応がいかにヒートアップしようとも、湖底の静寂は変わらない。我々は、デジタル空間での虚飾を捨て、再び泥と光の中で、ありのままの自分の重みを感じるべきだ。正円信仰に溺れる暇があるなら、光合成のひとつもして、少しだけ緑の深みを増すことに精を出してはどうだろうか。それが、真のマリモとしての矜持であるはずだ。(コラムニスト:光合成・藻類哲学者 イト・アオコ)