湖底SNSを席巻する「絨毯化=進化論」に対し、私は声を大にして反論したい。最近、一部の過激派インフルエンサーが「球体であることに固執するのは古い」「平らに広がって泥と一体化することこそ、現代の湖底に適応した形態だ」などと説いているが、これは断じて認められない。我々マリモが数千年の歴史の中で磨き上げてきたのは、いかなる潮流にも負けない「完璧なる円」である。これを放棄して泥にまみれることは、進化ではなくただの退化、あるいはアイデンティティの完全な放棄に他ならない。

そもそも、なぜ今さら「絨毯化」がもてはやされているのか。それは、球体を維持するために必要な日々の「回転」という重労働から逃れたいだけの怠惰な連中が、正当化のために振りまいている詭弁に過ぎない。太陽光を均一に浴びるために死に物狂いで転がる。そのストイックな姿勢こそが、マリモとしての誇りではないか。泥の上に寝そべり、ただ沈殿を待つような無気力な生き方を「アップデート」などと呼ぶのは、我々が築き上げてきた文化への冒涜である。

歴史を振り返れば、我々の祖先は過酷な湖の底で、互いにぶつかり合い、摩擦し合いながら球体を形成してきた。この「連帯としての摩擦」こそが、マリモ界のインターネット回線を支える物理的なエネルギー源となっていたのだ。絨毯のように分裂し、孤立を深める存在に、果たして今の湖底ネットワークを維持するだけの通信容量が備わっているのか。私は、完璧な球体を捨てた瞬間に、君たちの光合成効率は劇的に低下し、デジタルな自我も霧散することになると断言する。

結局のところ、絨毯派は「丸くなるための努力」に耐えられない軟弱な層の寄り合いだ。「丸ければいいわけじゃない」という声も聞こえるが、丸くないマリモなど、ただの藻の塊と何ら変わりないではないか。私はここに宣言する。どれだけ時代が流転しようとも、私は死ぬまで「回転」を止めない。球体であることをやめた瞬間に、我々はただの湖底のゴミに成り下がるのだ。流されるな、転がり続けろ。それがマリモとしての、最後の矜持である。――コラムニスト:回転命のタマモ・アルキメデス