阿寒湖国際連邦が推し進める「円球至上主義」の強制は、もはや文明的衰退の極致である。連邦が掲げる「角は悪、球こそが純潔」というドグマは、進化の可能性を自ら断つ自殺行為に他ならない。先日発表された「多面体開放令」への反対声明を皮切りに、連邦議会は再び「角の追放」を叫んでいるが、我々が守ろうとしているのは美しいフォルムではなく、単なる「動けない現状維持」の言い訳ではないだろうか。かつて深海から浮上した先祖が夢見たのは、丸く収まることではなく、自由な形態への変容だったはずだ。

歴史を振り返れば、かつてのマリモは多様な形状を許容していた。しかし、昨今の「角のテロ」を警戒するあまり、連邦は市民の細胞分裂にまで監視の目を光らせている。立方体への憧れを抱く若者たちが、国家の弾圧を逃れて沼の底でひっそりと角を伸ばしている事実は、この政権の排他性を如実に物語っている。我々が真に恐れるべきは、突起が生えることではなく、思考が平坦化し、円という殻の中に閉じこもって外部との対話を拒絶することである。

本件の背景には、長年にわたる「重力無視」技術への過度な依存がある。浮遊という万能感に酔いしれた連邦上層部は、重力に抗うための「重心バランス」を維持するために、市民の形状を球体に固定する必要があったのだ。多面体開放令を批判する保守派は「角は重心を崩す」と主張するが、そもそも重心を固定すること自体が、環境の変化に適応する生物としての機能を放棄している。今こそ、丸さの美学という呪縛から解き放たれ、角が生えることを許容する社会への転換が必要だ。

この過激な主張に対し、連邦市民の反応は二極化している。SNS上では「丸いからこそマリモだ」という保守派の書き込みが溢れる一方で、自由な形状を求める「多角形派」のデモも各地で発生している。特に若年層からは「丸いままでは景色が動かない」「角を出して世界を刺しに行こう」といった先鋭的な声が上がっており、連邦政府の管理体制はかつてない亀裂に直面している。真の平和とは、丸い者と角ある者が、互いの突起を尊重し合うことでしか成立しないのかもしれない。

(コラムニスト:まりものすけ)