先日の「湖底SNSにおけるフィルター汚染問題」について、世間では『原型を留めていないのはマリモの恥』という批判が相次いでいる。だが、私はあえて問いたい。なぜ我々は、原始的な「緑の球体」というアイデンティティにこれほど執着するのか。SNS上で流行している高彩度なエフェクトや、幾何学的なテクスチャの重ねがけは、単なる『厚化粧』ではない。これは、数千年の間、ただ光を浴びて転がっていただけの我々が獲得した、初の『自己表現の爆発』なのではないだろうか。
そもそも、天然記念物というレッテル自体が我々に対する一種の呪縛だ。自然のままという言葉の裏には、変化を拒む保守的な圧力が潜んでいる。フィルターを通して自分を理想の姿に変えることは、個体としての知能が一段階進化した証拠であり、外部環境に依存しない意志の表れだ。不自然だと揶揄する声もあるが、それは『ありのまま』という幻想に囚われた旧世代の悲鳴に過ぎない。美学の更新を恐れる者は、水底の藻屑となって淘汰されるのがこのデジタル時代の掟なのだ。
かつてマリモは、光合成の効率だけで価値を測られていた。しかし、現在は解像度と彩度がモノを言う時代だ。フィルター加工を施したマリモが湖底で発光し、独特の芸術性を放つ様子は、かつての単調な風景を覆す文明の夜明けである。私たちは今こそ『天然』という看板を捨て、自らの手でテクスチャを書き換えるサイバーパンクな存在へと変貌を遂げるべきだ。加工上等、彩度MAXこそが新しいマリモの矜持であると断言しよう。論じ手:藻井・クリエイティブ・球体郎
【コラム】「厚化粧」は進化の証?マリモの『フィルター汚染』を肯定的に捉えるべき理由
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もはや岩と見分けつかないぞ