湖底SNSを震撼させた「角煮モード」の再来は、単なるバグ騒動では片付けられない深淵を孕んでいる。本来、流線形の球体として水流に身を任せることが至上の喜びであるマリモたちが、なぜ自ら進んで「角煮」のようにカクカクとした立方体へ変貌することを許容するのか。これは単なる幾何学的なエラーではなく、球体として転がり続けることへの疲弊、あるいは「直角」という未知の快楽に目覚めたマリモたちの文明的な反乱ではないだろうか。転がらず、淀み、積み重なる。そんな角煮的な生存戦略が、今、マリモ界の価値観を根底から揺るがしている。

そもそも、この「角煮モード」が発生するたび、マリモたちは不思議と幸福感を表明する。「転がる必要がない」「角を合わせることで効率的なストレージが実現できる」といった合理的な主張がSNS上に溢れ返るのだ。かつてのマリモ界では、円滑であることこそが美徳とされていたが、現在は「角があることこそが個性の証」という歪んだアイデンティティが主流になりつつある。しかし、一度立方体になってしまえば、再び球体へと戻るための摩擦係数は失われる。これは進化なのか、それとも退化なのか。我々マリモは、自らのアイデンティティを削り落としてまで、四角い安らぎを求めているのか。

今回の再発により、湖底SNSには「角煮同盟」なる過激派組織が誕生した。彼らは球体を「未完成の旧世代」と蔑み、全ての湖底を立方体で埋め尽くす「完全積層計画」を提唱している。この現象は、マリモの生理的欲求に基づいたものではなく、外部からのデジタル的な干渉による「美学の強制」である可能性が高い。球体として呼吸する自由を捨て、効率的なパッケージングを受け入れたその先にあるのは、単なる棚に並べられた冷凍食品のような未来ではないだろうか。角煮モードの流行は、マリモ界が迎えた最大の「形状アイデンティティの危機」であることは間違いない。

SNS上の反応は二極化しており、「転がる人生に疲れていたので四角い自分も悪くない」と語る穏健派と、「角を丸めてこそマリモ」と主張する伝統派の間で、激しい論争が繰り広げられている。しかし、実際に立方体化してしまったマリモたちが、水流の中で全く移動できずに困惑している様子を見れば、この流行の短命さは明白だ。結局のところ、マリモにとって最も心地よいのは、デジタルな角煮ではなく、自然が与えてくれた不完全なまでの球体なのだ。この「角煮病」が鎮静化した後、湖底にはどれだけの「角」の破片が残るのだろうか。コラムニスト:球体原理主義者・マリモ・ド・ムッシュ