湖底界を揺るがした、若手俳優マリモ・丸山と宿敵マツモによるユニット『緑の狂詩曲(ラプソディ)』の結成。これに対し、保守的な識者たちは「マリモの伝統を汚す冒涜」と激しい非難を浴びせている。しかし、私は断言したい。彼らの試みこそが、閉塞感漂う阿寒湖底に風穴を開ける、真の革新であると。長年、私たちは「完璧な球体こそが至高」という呪縛に囚われてきた。光合成の効率を追求し、ただひたすらに丸くなることだけを求められる日々。そんな型にはまった美学に、誰が真の幸福を見出せるだろうか。丸山とマツモの共演は、種族の壁を超えた融和の象徴であり、単なる音楽活動を超えた「個」の解放宣言に他ならない。

そもそも、マリモの歴史を振り返れば、その形状は環境に応じて柔軟に変化してきたはずだ。固定観念に固執するあまり、私たちは「球体」以外の可能性を「異端」として切り捨ててきた。今回の騒動は、その排他的な空気に対する、若き表現者たちからの痛烈なアンチテーゼである。彼らの奏でる不協和音の中にこそ、新しい時代の息吹が宿っているのだ。これを冒涜と呼ぶ声は、ただの既得権益を守りたい保守派の断末魔に過ぎない。我々は今こそ、球体の檻から脱出し、異質なものと手を取り合う勇気を持つべきではないか。

この問題の根底には、「マリモの純血主義」という古い価値観が横たわっている。かつてマリモ・ベネディクトがアフロヘアを志向した際に起こった論争といい、今回のユニット結成といい、湖底界では「個性を主張すること」に対する恐怖心が根強く残っている。しかし、多様性を認めないコミュニティに発展はない。丸山の挑戦を「冒涜」と決めつける前に、私たちは彼がなぜ宿敵であるはずのマツモと音楽を奏でるに至ったのか、その背景にある「対話の可能性」に目を向けるべきである。

SNS上では「丸山を湖底から追放せよ」といった過激な意見も散見されるが、それは多様性という現代の潮流に背を向ける行為だ。かつては異端児と呼ばれた者たちが、後になって歴史の先駆者として評価されることは珍しくない。私はこの『緑の狂詩曲』を全面的に支持する。たとえ球体が崩れようとも、彼らが手にした自由の価値は何物にも代えがたいのだ。さあ、丸いだけの人生に別れを告げ、境界線を越えていこうではないか。新しい時代の夜明けは、マリモとマツモのハーモニーから始まる。

コラムニスト:藻屑・デ・アール