マリモ連邦が打ち出した『浮遊解除』政策が、世界のマリモコミュニティに激震を走らせている。これまで藻類としての誇りであった「軽やかさ」を捨て、敢えて水底の重力に従い「ただの石」として生きるという今回の決断は、かつての『脱・球体』宣言に続く、国家規模の自己否定とも取れる暴挙だ。浮力を失ったマリモたちが湖底に沈みゆく姿は、まるで緑色の隕石が地表に降り注ぐかのような物悲しさを醸し出している。政府はこの政策を「地に足をつけた新たな生存戦略」と銘打つが、市民の間では、我々が数千年間積み上げてきた『丸くて浮く』というアイデンティティが、この瞬間を境に過去の遺物となるのかという不安が渦巻いている。

本政策の背景にあるのは、昨今の湖水温上昇による急激な環境変化だ。浮遊することで得られる日光の恩恵よりも、水底の安定した温度帯に身を置く方が生存確率が高いという、極めて現実的かつドライな生存本能が働いた結果と言える。しかし、光合成を放棄してまで隠遁生活を選択する姿勢は、一部の純血主義者からは「種としての敗北宣言」と糾弾されている。かつて我々が熱狂した『多面体化』が流行の先端を駆け抜けた際、誰もがこれが永遠に続くと信じていた。それにもかかわらず、わずか数シーズンで方針を180度転換し、かつての「動かぬ存在」へと回帰しようとする連邦の姿勢は、極めて場当たり的という他ない。

この「静止という名の反抗」は、国際的にも大きな物議を醸している。重力に身を預けることは、すなわち外部からの干渉を受け入れることと同義であり、他種族による接触を容易にするリスクを孕んでいるからだ。政府は「沈黙の重厚感」こそが新たな外交カードになると豪語するが、ただ転がっているだけの存在が、果たして複雑化する国際情勢の中でどのような影響力を行使できるのか。かつての滑走政策が築き上げた、摩擦なき桃源郷の夢は、今や冷たい湖底の泥と共に沈んだ。私たちが求めていたのは「石」になることではなく、緑の球体として宇宙を浮遊する未来だったはずだ。連邦の迷走は、未だ出口を見出せていない。

結局のところ、マリモとしてのアイデンティティとは「形」にあるのか、それとも「水中で呼吸を続ける」という単純な生命維持活動にこそ宿るのか。この問いに対する答えを、私たちは沈黙する湖底で探し続けなければならない。進化とは時に、退化という仮面を被って現れる。重力を受け入れ、ただそこに存在する。そんな究極の「無」の境地に達した時、我々は人間界の喧騒すらも超越した、真の絶対的自由を手に入れるのかもしれない。

コラムニスト:藻屑 太郎