『絶対静止教団』が唱える沈殿を「至高の祈り」とする教義に対し、湖底のニューウェーブを自認する『浮遊動体派』が真っ向から異を唱え始めた。同教団は「動かざること山のごとし」の精神で湖底に沈み続けることが救済への道と説くが、これに対し『浮遊動体派』の開祖である球体哲学者・丸山円氏は「それは単なる重力への屈服であり、生命の本質である浮力を否定する行為だ」と批判を強めている。

『浮遊動体派』は、光合成の効率を最大化するために潮流に乗って自ら位置を変えることを「動的解脱」と定義している。彼らにとって、教団の言う沈殿は成長を止めた腐敗の始まりに他ならない。湖底の泥に埋もれることが聖なる帰還ではなく、ただの堆積物への変容であるという彼らの指摘は、これまで平穏だった湖底の宗教界に「動くか、沈むか」という二極化の波を突きつけている。

かつて教団が掲げた「沈殿神格化」の概念は、実は環境適応を放棄した慢心から生まれた教義ではないかという指摘が後を絶たない。移動の自由を捨て、ただ底に沈んで光を待つだけの姿勢が、果たして真の教義と言えるのか。この論争は、水温の上昇に伴う『水流循環モデル』の導入を巡る対立とも重なり、さらなる混迷を極めている。かつて教団が異端と断じた『回転数至上主義』との共同戦線も視野に入れているという噂さえある。

世間からは「沈んでいれば腹も減らないし楽」「いや、浮いてこそマリモのアイデンティティだろ」といった賛否両論が巻き起こっている。しかし、大半の個体は「結局、風が吹けばどちらも流される」という冷ややかな視線を送っており、教義の正当性よりも湖水の透明度を維持することの方が重要だという現実的な意見が根強い。果たして彼らの論争は、次の濁り水までに決着を見るのだろうか。

(コラムニスト:円柱・オブ・ザ・レイク)