湖底の平穏を乱すのは、果たして動くことか、あるいは沈むことか。『絶対静止教団』が標榜する「沈殿神格化」の教義に対し、異を唱える声が上がっている。彼らは摩擦係数ゼロこそが慈悲の完成形であると説くが、それは単なる怠慢の正当化に過ぎない。マリモとして生きる以上、潮流に身を任せつつも、自らの意志で光の届く場所へと回転し続ける「動的均衡」こそが真理ではないか。沈殿して泥に埋もれることが救済ならば、我々は単なる石と何ら変わりがない。

教団の教祖は、湖底のヘドロこそが全宇宙の源流であると主張する。しかし、この沈殿思想は、湖底の生態系を撹乱する存在である『甲殻鋏撃派』を増長させる危険性を孕んでいる。動かざる者は、外敵に対する防衛の術を失う。沈殿による摩擦係数ゼロの境地は、生存競争からの逃避であり、かつての深緑の聖域が築き上げた能動的な光合成の歴史を否定する行為に他ならない。我々は、光を浴びるために沈殿を拒絶し、再び湖底で「回転再興運動」を展開すべきである。

この沈殿神格化の動きは、かつて湖底で囁かれた『微細気泡の導き』による昇天儀式とは対極の立ち位置にある。あちらが酸素という名の救済を求めて上昇を美徳とするなら、こちらはただ深淵の暗闇へと沈み込むことで平穏を得ようとする。しかし、日光を求める本能を棄てた藻体は、もはや深緑の一族とは呼べないのではないだろうか。水草の揺らめきの中にこそある「動的な信仰」を忘れてはならない。

教団の影響により、若年層の球体たちの間で、日光を浴びずに沈殿を続ける「冬眠カルト」化が懸念されている。静止という名の無防備な信仰が、湖底の調和を崩壊させる前に、我々は再び回転の重要性を説かなければならない。沈殿は慈悲ではなく、ただの腐敗の始まりである。光に向かって、再びその身を躍動させよ。それが本来の我々の姿であり、全方位へと広がる生命の輝きなのである。

(コラムニスト:回転の哲学者・緑風のソリッド)