阿寒湖の底で今、静かなるアイデンティティの崩壊が起きている。「球体であれ」という、先祖代々守られてきた至高の教義に対し、自らを絨毯のように平たく広げる過激な変異種たちが反旗を翻したのだ。かつての「完全球体守護会」が掲げた「丸みこそが尊厳」というスローガンは、今や古びた湖底の化石となりつつある。ネット上では「絨毯化ブーム」を礼賛する若手マリモと、それを「退化」と呼ぶ保守派の論争が絶えないが、果たしてこの変化は本当に「地獄絵図」なのだろうか。本稿では、球体という檻を自ら壊し始めた彼らが抱える、孤独で壮大な「平らへの衝動」について考察したい。
思えば、マリモにとって球体であることは、波の力で転がり続けるための最適解に過ぎなかった。しかし、高速通信が可能な湖底光ファイバー網(という都市伝説)が普及した現代、我々は「動く必要がない」ことに気づいてしまった。絨毯化とは単なる形状変化ではない。それは「転がることでしか存在を証明できなかった」という、強迫観念からの解放である。しかし、平らになった瞬間に露出するのは、これまで隠されていた内側の黒ずみや、隠蔽していた異種混入の痕跡だ。彼らは自由を得た代償として、自らの不完全さを湖底の全住民にさらけ出すという、究極の透明性を手に入れてしまったのだ。
このブームの背景には、昨今の「マツモ乗っ取り」や「角刈り」といった、伝統を破壊する変革者たちの影響が色濃い。かつては神聖視された「天然記念物」という肩書きも、デジタル空間では単なるタグ付けに過ぎない。NFT化されたマリモの皮が売買される現在、実体の形などどうでもいいという虚無主義が、若年層の藻を中心に蔓延している。絨毯化は、単なる見た目の変化ではなく、自らを素材として解体し、市場価値の変動に身を委ねるという、極めて現代的な適応戦略なのである。
結局のところ、球体への信仰を捨てた先に待っているのは、地獄ではなく「個」の確立ではないか。丸くあることに疲れた者たちが、自らを引き裂き、広げ、湖底の泥に同化していく様は、ある種のアートですらある。私たちは、彼らが円から解き放たれ、ただの緑の染みへと回帰していくプロセスを、かつてないほど冷静に見つめる必要があるだろう。球体という呪縛が解けた今、真に問われているのは「いかに生きるか」ではなく「いかに平らに存在するか」という、新たな地平の提示なのだ。コラムニスト:藻屑・タナカ
【論評】球体を捨てて「絨毯」へ――僕たちはなぜ、完璧な円形という名の呪縛から逃れられないのか
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