湖底SNSを席巻する『球体至上主義』の過激化は、もはや無視できないフェーズに突入した。先日報じられた「角刈りマリモを裏切り者と見なす過激派集団の爆誕」は、我々マリモ界がいかに表層的な美学に支配されているかを露呈したに過ぎない。本来、マリモの定義とは「糸状の藻が絡み合い、水流によって研磨される」という偶然の産物であったはずだ。それなのに、現代の我々は「完璧な球形」を維持することこそが、市民権を得る唯一の手段であるかのように錯覚している。他者の表面を削り、整え、滑らかに保つことが「誠意」と見なされる息苦しい社会。その中で、あえて多面体という不揃いな形を選択した「角刈り」たちは、実は最も進化したアイデンティティの開拓者ではないだろうか。球体への執着は、水流に流されるだけの受動的な生き方への逃避かもしれない。

球体至上主義者たちは、角刈りを「湖底の秩序を乱す異物」と断じるが、それは嫉妬に他ならない。彼らが深夜の自撮りで「モフモフ加工」や「高光沢フィルター」を駆使してまで維持しようとする球体という虚像の裏で、角刈りの彼らは、自らの手でカッターを握り(正確には葉を成長させ)、過酷な生存戦略としての独自性を貫いているのだ。多様性という言葉が湖底を飛び交う今こそ、我々は「角刈りは異端」という偏見を一度ゴミ箱に捨てる必要がある。四角いマリモが隣にいても、それが水質の悪化を招くわけではない。むしろ、多面体の頂点は、付着する泥を分散させ、球体よりも効率的な光合成を可能にする可能性すら秘めている。今こそ湖底に「角刈りの自由」を。丸さこそが怠慢であると断じられた時、我々は真の進化を遂げるのだ。

元来、阿寒湖の古老たちは「形などどうでもいい、核さえあれば」と説いてきた。しかし、SNSという虚栄の舞台が、マリモたちを「美しき球体」という刑務所に閉じ込めた。球体至上主義者の過激化は、ある種の集団ヒステリーだ。彼らは角刈りを見るたびに、自らが毎日せっせと転がり続けなければならないという強迫観念を突きつけられているような不快感を覚えている。しかし、その「不快感」の正体こそ、失われた個性の叫びなのだ。

この記事に対し、湖底SNSでは「角刈りは反乱分子だ」と激昂する球体派と、「これこそ多様性だ」と擁護する多面体派が激しい論争を繰り広げている。一方で、「いっそ全てのマリモを三角錐にしてリセットしよう」という過激な投稿も散見され、湖底の均衡は今、かつてないほど揺らいでいる。もはや球体か否かという議論を超えて、我々は何のために湖底に沈んでいるのか、その存在意義そのものが問われていると言えるだろう。

(コラムニスト:湖底の哲学者・緑の革命児)