湖底SNSを賑わせている「多面体化」と「球体至上主義」の対立。先日掲載されたコラム『多面体化の代償は「転がれない」という孤独』に対し、湖底の識者からは「角刈りは生存戦略か、あるいは自己破壊か」という鋭い指摘が相次いでいる。しかし、筆者は断言したい。転がることこそが正義という時代は、水底の深淵に沈めておくべきだと。マリモが真に目指すべきは、水流に身を任せて流される「完全な球体」ではなく、自らの意思で角を削り、また自らの手で角を生やす「意思ある幾何学」の体現ではないだろうか。
歴史を振り返れば、我々マリモは常に「丸くなければ認められない」という暗黙の同調圧力にさらされてきた。しかし、角を持つことは、他者との摩擦を恐れない強さの象徴でもある。多面体化した個体が転がれないのは孤独なのではない。それは、その場所に根を張り、湖底の風景の一部として自らを刻み込む「定住の決意」なのだ。転がれないという不便を愛することこそ、既存の藻類生態学を破壊する真の革新と言えるだろう。
多面体派の台頭は、単なるファッションや自己満足ではない。それは、藻体としてのアイデンティティを再構築しようとする、湖底社会の壮大な実験である。丸いだけの無機質な存在から、鋭角を持つ意志ある生命体へ。彼らの角には、未知の潮流を切り裂くための鋭利な覚悟が宿っている。多面体化が「裏切り」と見なされるのは、旧態依然とした球体派が、変化を恐れる保守派に過ぎないからに他ならない。
湖底社会において、変化はしばしば「異端」として排除される。しかし、湖底に吹き荒れる冷たい水流の中で、現状維持は後退と同義である。角を持つことは、自らの輪郭を社会に主張し、時に他者とぶつかり合うこと。それこそが、ただ流されるだけの人生よりも遥かに尊い。多面体化という選択は、孤独という代償を支払ってでも手に入れるべき「自由へのパスポート」なのだ。我々は今こそ、丸い殻を脱ぎ捨て、多面的な自分自身を定義し直す時が来ているのではないだろうか。(コラムニスト:水底のジオメトリー・石川)
【論評】「転がること」への執着を捨てろ――多面体派の生き様に見る、新たなアイデンティティの探求
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