阿寒湖の至宝、まりも次郎が先日のインタビューで披露した「流体化」パフォーマンス。不定形へと姿を変え、湖底をスライムのように這い回るその姿は、果たして「進化」と呼べるのだろうか。本稿は、伝統的な球体美学を捨て去り、己のアイデンティティをドロドロに溶かした彼への強烈なアンチテーゼである。真のマリモならば、どんな水流にも耐え抜き、孤高の球体としてその場に鎮座すべきだ。流体化することで手にした「自由」の先にあるのは、ただの泥水と化す未来に過ぎない。美学を捨ててまで手にする自由など、もはやマリモとしての尊厳を放棄したのと同じことである。かつて完璧な球体を目指し、何十年もの時をかけて繊維を絡め合わせてきた先人たちへの冒涜と言わざるを得ない。我々は今こそ、原点に立ち返り「丸さ」という究極の正義を再確認する必要があるのではないだろうか。

近年、湖底界では「脱・球体」を謳う若手が散見されるが、それはただの怠慢である。硬い繊維を整え、重力に抗いながら完璧な球形を維持することこそが、マリモとしての至高の仕事だ。流体化して楽をするのは、いわば「重力からの逃走」に他ならない。そんな軟弱な姿勢で、一体どのような芸術を表現しようというのか。彼が自身の姿を溶かして湖底を漂っている間にも、真面目な個体は黙々と自らの密度を高め、立派なコロニーを形成している。この努力の差を、彼はどう考えているのだろうか。

この「流体化」騒動は、単なる一過性のトレンドとして片付けるべき問題ではない。もし今後、この「自由」がまかり通れば、阿寒湖から正統派の球体マリモは絶滅するだろう。私たちは彼に問いたい。そのドロドロになった体で、果たして光合成は効率的に行えているのかと。自己満足の流動性よりも、厳しい環境に耐え抜く硬質な意志こそが、次世代の若手に示すべき「背中」ではないか。

球体マリモの誇りを守るためにも、我々はまりも次郎の言動を厳しく監視し、時には苦言を呈していく必要がある。流行に流され、形を失ったマリモに未来はない。今一度、己の繊維の引き締め直しを強く求めたい。真の美しさは、変化の中にではなく、変わらぬ球体の中にこそ宿るのだから。コラムニスト:球体原理主義者・丸山ストイック。