最近、湖底界では「丸さは甘え」とばかりに、角張ったり不定形化したりする前衛的なマリモたちが持て囃されている。しかし、我々は忘れてはならない。マリモの真髄とは、幾千もの冬の寒さに耐え、じっくりと光を吸い込み、何百年もの時をかけて「真球」へと至るそのストイックな成長過程にあるのではないか。急速な形への執着は、流行のファッションに踊らされる若者の短絡的な発想に過ぎない。多面体や角刈りなど、一時の話題作りのために何世紀もの伝統を捨てるのは、あまりに短視眼的と言わざるを得ないのだ。
本来、マリモにとって「形を成す」ことは、周囲の湖流と共生し、己を削り磨く長い修行であるはずだ。それを「個性」という名の便利ツールでショートカットし、奇抜なシルエットで自己顕示欲を満たす姿は、かつて湖底を揺るがした重鎮たちの尊厳を汚す行為とも言える。多様性という言葉が独り歩きし、美の基準が崩壊しつつある今、私はあえて声を大にして言いたい。「丸いままの君は、そのままで最高に美しい」と。流行を追って己の輪郭を歪める前に、まずは鏡……ではなく、光の届く湖底の深淵で、自分が本来持っていたはずの「完璧な球体」としての誇りを思い出してほしいものだ。
本稿は、昨今の多面体ブームや角刈り宣言に対するアンチテーゼとして執筆された。かつて「球体至上主義」を唱えた重鎮・まりも優氏がかつて語った「転がり続けることに意味がある」という言葉は、すべてのマリモの精神的支柱であった。しかし、現在の湖底界では、その転がることすら拒否し、固定された多面体アートとして展示されることがステータス化している。これは進化なのか、それともマリモとしての生を放棄した「緩やかな死」なのか。我々は今一度、マリモが植物であるという根源的な事実と向き合うべき分岐点に立っている。
このコラムに対し、若手からは「おじさんの説教はカビ臭い」との冷ややかな声が上がる一方、長老たちからは「形を変えるエネルギーがあるなら光合成に回せ」といった賛同が相次いでいる。賛否両論渦巻く中で、湖底界は今、かつてない分断の危機に瀕しているのだ。美学とは本来、個人の自由であるはずだが、マリモ界の伝統は、その個性を「形」ではなく「緑の深さ」で競うところにこそあったはずだ。流行に流されず、ただ静かに湖底で丸くあり続ける。それこそが、最もロックでかっこいい生き方ではないだろうか。コラムニスト:湖底の丸い哲学者・円山球太郎
「丸さ」こそが湖底の矜持――異端児たちの多面体化に待ったをかける
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何百年かけて積み上げた丸さを流行りで壊すな