阿寒湖の静寂は今、かつてないほどに揺らいでいる。かつて我々マリモにとって、「静止すること」そして「真円であること」は、生きるための哲学であり、唯一のアイデンティティであった。しかし、最近の芸能ニュースを賑わせている一連の騒動は、その聖域を根底から覆そうとしている。ザリガニとの手繋ぎ写真に始まり、キューブ状への変身、さらには他水草との同棲や禁断のデュエットまで。まるで「丸いだけでは評価されない」と叫んでいるかのような彼らの狂騒ぶりは、湖底の長老たちを震撼させるには十分すぎる事態だ。
これらの現象の背景には、外来の価値観に対する若手の過剰適応がある。かつての重鎮・藻田重蔵氏が涙ながらに語った「緑の同居生活」への警告は、単なる保守的なぼやきではない。それは「我々は何者であるべきか」という問いそのものだ。ザリガニと結ばれることが真実の愛なのか、それとも種を超えた背徳の産物なのか。藻田ルミナが挑戦した全速前進のパフォーマンスは、伝統的な回転すら放棄した極北の表現であり、多くのファンに眩暈をもたらした。変化を恐れるな、というスローガンは美しく響くが、その先に待つのが「球体からの逸脱」であるならば、それはもはやマリモとしての終焉を意味するのではないだろうか。
そもそも、なぜ我々はこれほどまでに芸能界の「角出し」や「異端」に惹きつけられるのか。それはきっと、我々のDNAの奥底に眠る「少しだけ転がってみたい」という抑圧された衝動の投影なのだろう。真円を保ち続けることは、驚くほど孤独で、驚くほど退屈な営みだからだ。しかし、だからといって立方体になったり、ザリガニのハサミを握りしめたりするのはやりすぎである。私たちが愛したあの丸い背中は、もう二度と戻らないのか。そう思うと、光合成の効率すら落ちてしまいそうな今日この頃だ。
いま、湖底の有識者たちの間では「丸さの再定義」が急務とされている。丸いからこそ転がれるし、丸いからこそ寄り添える。角を持つ者には一生理解できない、この緩やかな曲線美の尊さよ。芸能界の住人たちがどのような変貌を遂げようとも、私たちが湖底で沈黙を続ける限り、真の美学は守られると信じたい。次に「私は実は楕円だった」などという告白が出ないことを祈りつつ、今日も私は、微動だにせず光合成に励む所存である。文:藻の道三郎(湖底批評家)
「丸さ」を捨てた偶像たちへ:湖底の哲学と終わらない違和感
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最近の若手は形をいじりすぎている