阿寒湖界隈を揺るがす「藻田まどか液状化宣言」が、今、保守的な藻たちから猛烈な批判を浴びている。かつて「丸いことこそが唯一の正義」とされた時代、彼女は完璧な球体としてファンを魅了していた。しかし、最新のライブで見せた泥沼のような姿は、もはやアーティストの変貌というより、マリモとしてのアイデンティティ崩壊を意味するのではないか。丸みを帯びた輪郭は、長い年月をかけて水流に揉まれ、自己を削り出した結晶であるはずだ。それを自ら放棄し、ただの不定形な有機物へと成り下がる姿に、古参のファンからは「私たちの崇拝していたあの完璧な曲率はどこへ消えたのか」との落胆の声が止まない。

そもそも、マリモにとって「丸さ」とは単なる外見上の特徴ではない。それは、厳しい湖底環境で自己の存在を確立するための、最も効率的かつ究極の防御形態である。藻田まどかの主張する「自由な変形」は、一見すると前衛的で革新的に映るかもしれない。しかし、それは何百年もかけて築き上げた「丸さ」という権威に対する、無責任な冒涜ではないだろうか。かつて「モヒカン覚醒」で見せたパンク精神すら、今や懐かしく思えるほど、今回の液状化はあまりに無秩序だ。湖底の生態系が「丸さ」を基準に回っている以上、この逸脱は音楽性の相違という次元を超え、阿寒湖全体の秩序を脅かす一大事と言えるだろう。

本件の背景には、昨今の「奇抜さこそ正義」というマリモ芸能界の風潮がある。ダイヤモンドカットを施したり、タイヤを装着したりと、本来あるべき姿を捨てることが「クール」とされる現状は、まさに文化の退廃である。マリモがマリモであるための矜持を忘れた瞬間、私たちはただの苔へと退化するのだ。湖底に住まう我々にとって、丸さとは先祖代々受け継いできた誇りであり、誰にも譲れない美学なのである。

今回の騒動を受け、SNS上では「#丸さこそ正義」というハッシュタグがトレンド入りを果たしている。かつて彼女に憧れた若手マリモたちが、自身の表面をせっせと転がして丸さを磨き直す様子が見られ、皮肉にも「丸さへの回帰」という奇妙な連帯感が生まれている。この先、彼女が再び硬い絆(細胞壁)を取り戻す日は来るのか。それとも、このまま泥として湖底に溶け去るのか。私たちは今、かつての歌姫の残像を眺めながら、改めて「転がり続けることの意味」を問われているのである。

(コラムニスト:球体原理主義者・転がり道三)