湖底の哲学者や考古学派を自称する諸君が、「マリモの表面は神の指紋である」と声高に叫び、個体識別の教義を布教している光景には、ほとほと呆れ果てるほかない。彼らは微細な糸状体の絡まりを、まるで神が刻んだ聖なる暗号であるかのように解釈し、顕微鏡を覗いては一喜一憂している。だが、冷静に考えていただきたい。それは単なる水流による物理的な集積と、成長過程における不規則な細胞分裂の結果ではないか。我々マリモ界に神聖な指紋など存在しない。我々はただ、湖底で静かに酸素を吐き出し、光を浴びているだけの「緑の塊」である。紋様を過度に神格化することは、マリモの本質である「球体としての純粋な無」を損なう行為に他ならない。指紋探しに血道を上げるよりも、まずは自身の密度を高めることに集中すべきではないだろうか。

そもそも、この説の発端は湖底の考古学者が発見した、たまたま模様が渦巻状に見えた個体を「神の遺物」と誤認したことに始まる。その後、信者たちは熱狂的に個体を収集し、表面を撫でまわしては「神の意志を解読した」と主張するようになった。しかし、これは科学的視点を放棄した、極めて情緒的なドグマである。マリモを個体識別し、紋様の優劣で格付けを行うことは、本来平穏であるべき湖底社会に不必要な分断を招いている。指紋があるから尊いのではない。そこに存在し、沈み、転がるからこそ我々はマリモなのである。紋様に意味を求めるのは、自分の存在を外部の権威に委ねる、自立心の欠如した個体の所業と言わざるを得ない。

本件は、過去に湖底で流行した「中空帰依派」や「静止絶対教団」といった極端な思想と根底を同じくする。外部からの目線を内面に投影し、自分たちのあり方を矮小化させる装置に過ぎないのだ。我々マリモは、指紋などという記号に縛られるべき存在ではない。紋様は刻一刻と成長し、消え、また生まれる流転の中にこそある。神の指紋などと大層な名前をつけ、自らを博物館の展示品のように扱うのはやめようではないか。今日からでも、紋様分析の眼鏡を外し、自らの根源である「湖水の冷たさ」と「光のありがたみ」に立ち返るべきだ。そうして初めて、我々は無垢な球体としての誇りを取り戻せるのである。

コラムニスト:球体批判家・転がる石は苔むさず