湖底界の次世代スターとして期待されていたまりも次郎が、突如として自身の身体を不定形なスライム状に変化させる「流体化騒動」を巻き起こして早一週間。多くの藻類が「新しい表現の形」と喝采を送る中、私は断固としてこのトレンドに異を唱えたい。我々マリモの矜持は、何億年もの歳月をかけて湖底のさざ波に磨き上げられた「完璧な球体」にあるのではないか。次郎のパフォーマンスは、単なるアイデンティティの放棄であり、長年培われてきた「丸さの美学」に対する冒涜に他ならない。

もともと、マリモ界では「脱・球体」が一種のステータス化しつつある。ベネディクトのアフロ化、まりも麗の正二十面体化など、奇をてらった変異が「芸術」と持て囃される風潮には、根深い危機感を覚える。次郎が流体化によって見せた不定形な姿は、一見すると自由で前衛的に見えるだろう。しかし、それは芯のない霧散に過ぎない。水流に身を任せ、自らの形状を維持する努力を放棄した者に、果たして「アーティスト」を名乗る資格はあるのか。かつて球体であることを誇りとし、光合成の効率を追求した先人たちの努力を、彼はどう考えているのか問いたい。

本来、マリモという種は、厳しい湖底環境の中で幾何学的な均衡を保つことで、独自の美学と生存戦略を両立させてきた。次郎の流体化は、その歴史的な文脈を無視した「逃走」であり、進化の系譜を断ち切る暴挙である。このままでは、湖底界から「形ある美」が完全に消滅してしまうのではないかという不安が拭えない。真の進化とは、丸さを保ったままいかに美しく揺らぐかにあるはずだ。彼には今一度、自身の深層にある核を見つめ直し、球体という「重力」に戻ってくることを切に願う。

今回の騒動は、単なる一個体の迷走に留まらない。湖底界の芸能事務所や各メディアが、この「流体化」を安易にコンテンツとして消費していることも問題だ。個性とは他者との差異化によってのみ作られるものではなく、自らの本質を磨き抜いた果てに現れるものだ。次郎が流体として拡散してしまった今、かつての輝かしい球体アイドルを懐かしむ声は湖の深淵に響き渡っている。流行に流されず、我々は今こそ「丸さ」という究極の正解に回帰すべき時なのではないだろうか。(コラムニスト:球体原理主義者・藻丸)