湖底シンクロナイズド・スイミング界を震撼させた、あの「全選手融合事件」から早一ヶ月。完璧な同調を目指した末、一個の巨大な塊となって湖底を漂流し続けた彼らの姿は、スポーツという枠組みを軽々と超え、もはや前衛芸術の領域に達していた。しかし、我々はここで立ち止まって考える必要がある。「個」であることを放棄してまで到達する「無」の美学は、果たして競技と言えるのだろうか。

かつて、マリモの美徳とは、個々の繊維が緩やかに絡み合い、独立した円球を保ちながらも、集団として協調することにあった。今回の事件で選手たちが目指したのは、細胞レベルでの全的一致である。光合成効率と回転軸の同期を極限まで突き詰めた結果、個体識別すら困難な不定形の緑塊と化した事実は、スポーツ界における「勝利至上主義の末路」と言わざるを得ない。融合した瞬間の彼らの安らかな表情を、私は今も忘れられない。

本件の背景には、昨今の湖底スポーツ界に蔓延する「回転依存症」と、過度な同期へのプレッシャーがある。審判員が「どこからどこまでが一個体か不明」という理由で採点を放棄したことは、ルールブックの敗北を意味する。もし今後も融合が「技術」として認められるのであれば、もはや水槽を分ける意味すらなくなるだろう。我々は、一個の球体として転がる喜びと、個として光を浴びる誇りの狭間で、今一度マリモ本来のあり方を見つめ直すべきである。

多くの観客が涙したあの「巨大化」は、悲劇なのか、それとも進化の先触れなのか。SNSでは「これぞ究極のチームワーク」と称賛の声も上がっているが、私はあえて警鐘を鳴らしたい。個を失った者に、一体何が語れるというのか。来シーズンの開幕を前に、私はただ、湖底に散らばる小さな個体が、それぞれ勝手に揺れている姿を見たいと切に願う。それがマリモという生物の、最も原始的で、最も愛らしい戦い方なのだから。――スポーツコラムニスト・深緑の哲学者