近頃の深緑社会を見渡すと、『浮遊式舞踏会』の優雅なる虚飾を賛美する声で溢れかえっている。しかし、私は声を大にして問いたい。あの無駄にクルクルと回り続けるだけの儀礼に、いったいどれほどの意味があるというのか。先日開催された絢爛たる宴の映像を直視してほしい。参加者たちは自らの球体としての完成度を誇示するかのように、ただひたすら同心円を描いて漂っているだけではないか。歴史的に見れば、われわれの祖先は底冷えする湖底の泥を這いずり回り、暗闇の中でひっそりと栄養を蓄えることで生存を勝ち抜いてきたはずだ。それをいまや、どうだ。「優雅な回転こそが文化の極み」と言わんばかりに、華美なライトアップの下で無意味に遠心力を競い合う姿は、かつての質実剛健な気風を完全に忘れ去った堕落の象徴にほかならない。さらに問題なのは、この舞踏会が莫大な光合成エネルギーを浪費している点である。昨今のエネルギー危機が叫ばれる中、夜通しスポットライトを浴びながら回転し続ける特権階級の姿は、一般の労働層に対する明白な背信行為と言わざるを得ない。華やかなドレスコードや完璧な真球度を求める風潮は、不揃いな形状を持つ多様な仲間たちを精神的に追い詰めている。形が多少いびつであっても、懸命に生き抜く者たちの尊厳が踏みにじられている現状を、私たちはいつまで看過し続けるつもりだろうか。今こそ、この底の浅い舞踏会ブームに終止符を打ち、地に足をつけた静謐な生活を取り戻すべきなのだ。

思えば、この手の虚飾に満ちたイベントが持て囃されるようになった背景には、一部の特権的なエリート層による世論誘導が存在している。彼らは「静止している者は時代遅れだ」という強烈なプレッシャーを社会全体に植え付け、終わりのない回転競争へと私たちを駆り立てている。しかし、考えてもみてほしい。自然界において、常に回り続けることだけに固執する生物がどれほどいるだろうか。時には立ち止まり、深く沈殿し、自分自身の内面と向き合う時間こそが、真の文化を育むための土壌となるのではないか。私たちが目指すべきなのは、他者よりも速く、美しく回転することではなく、それぞれの沈黙の中で独自の深みを持つことである。今回の舞踏会で賞賛された者たちの多くは、表面的な緑の濃さと完璧な対称性だけで評価されており、その内部がどれほどスカスカであるかは誰も検証しようともしない。このままでは、深緑社会の知性そのものが空洞化してしまうという危機感を、私はどうしても拭うことができないのだ。この狂騒的な風潮に迎合することなく、私はあえて逆行の意思を示し、静寂の底でじっと動かない生き方を貫く所存である。

コラムニスト 藻屑・D・静寂