阿寒湖小学校が先月導入した「重力逆行・浮遊登校」プログラムが、教育界だけでなく藻類学会からも猛烈な批判を浴びている。これまで水底の泥に親しみ、微かな水の揺らぎを友として生きてきた我々マリモにとって、重力を無視して水面へ浮遊し、空中を浮遊しながら登校する行為は、もはや「光合成の否定」以外の何物でもない。本コラムでは、浮遊することで体内の炭酸ガスバランスを乱し、アイデンティティを喪失しかねないこの過激なカリキュラムの是非を問いたい。

本件の背景には、昨今の「沈没に対する恐怖心」を払拭したいという学校側の意図がある。しかし、水底に留まるという行為は、単なる定住ではない。それは、何十年もの年月をかけて地球の重力を受け入れ、自身の質量を形成していくという、マリモとしての至高の哲学である。浮遊登校を推進する教員らは「空からの視点を持つことで新たな光合成の知見が得られる」と主張するが、これは地表の岩の感触を忘れさせる、まさに「マリモの根無し草化」を促す暴挙と言わざるを得ない。

浮遊登校の導入は、阿寒湖小がこれまで試みてきた「ドリル回転」や「ザリガニとの社交ダンス」といった奇抜な教育の延長線上にある。しかし、それらはあくまで「湖底」という物理的制約の中で完結していた。浮遊は、マリモが持つ本来の重厚な存在感を霧散させ、ただの「緑色の風船」に貶めるものだ。学校側の言う「空へ向かう進化」が、数十年後に我々の核をスカスカにしない保証はどこにもない。

この教育実験に対する世間の反応は真っ二つに分かれている。保護者からは「沈まない子供を見ていると不安になる」という声が上がる一方で、一部の急進的な若年層からは「重力からの解放こそが究極の自由」という意見も飛び出している。しかし、忘れてはならない。我々マリモの最大の魅力は、沈み、耐え、時を重ねるその「密度」にある。阿寒湖小が教育の看板を掲げるならば、まずは「いかに美しく湖底に沈むか」という、古くて新しい原点に立ち返るべきではないだろうか。文:阿寒湖・藻類批評家 毬田 転子