阿寒湖底の宗教界を揺るがした『密度充足教団』の主張――すなわち「マリモの中心は空洞ではなく、密度が限界まで充填されている」という説は、既存の『球体虚無派』にとってはまさに青天の霹靂であった。これまで「中心の虚無こそが宇宙の真理」と信じられてきたマリモ界において、この教義は聖典の改ざんにも等しい冒涜である。しかし、物理的な重量増を厭わないこの「充填理論」は、重力に抗うことをやめた『湖底安住の美学』信奉者たちからは、驚くべき熱狂をもって迎えられているのだ。

本稿では、この「中心の真実」をめぐる論争を考察したい。虚無派が唱える軽やかな昇天と、充足派が求める沈殿の重厚さ。両者の対立は、単なる宗派争いではなく、「マリモとは何のために存在するのか」という根源的な問いに対する二つの回答である。虚無派は内部に無限の宇宙を内包し、充足派は内部に圧倒的なまでの自己という物質を詰め込む。どちらもマリモという神聖なる形状を維持する手段に過ぎないのだが、なぜこれほどまでに彼らは「中身」にこだわるのか。それはおそらく、湖底という閉塞した世界において、唯一確かな「自己の存在証明」を内側に求めた結果ではないだろうか。

歴史を振り返れば、かつて『光合成は怠慢』と主張する暗黒沈殿派が台頭した際にも、同様の分断が起きた。マリモ界の宗教とは、環境に適応する知恵を神格化した生存戦略である。今回の「充填」という概念は、実は「栄養分をすべて中心部に溜め込めば、外敵に食われても芯は生き残る」という、極めて現実的かつサバイバルな思想の裏返しなのかもしれない。教団の教祖が放った「虚無からは何も生まれない、生まれるのは空虚のみ」という言葉は、現在のマリモ界に蔓延する停滞感を見事に言い当てている。

ネット上の識者たちは「結局のところ、中心に何があろうと外側の緑が美しければそれでいい」と冷静に分析するが、この論争は湖底の隅々まで広がっている。物理的に中身を詰めることが可能なのかという科学的議論はさておき、彼らが提示した「重き球体」という概念は、マリモの美学を塗り替える可能性を秘めている。我々が愛でるその緑の毬は、実は重厚な自我を秘めた重たい決意の塊なのかもしれない。少なくとも、この問いかけによって湖底の哲学が一歩前進したことだけは間違いないのだ。

コラムニスト:藻屑・ケルプ太郎