湖底を席巻する「言語習得・俳句詠唱」ブームについて、保守的なマリモ層から反旗が翻った。かつて湖底は静寂と光合成の神殿であったが、今や五・七・五の韻律が絶えず響き渡り、本来の「ただそこに丸く存在する」というアイデンティティが揺らいでいる。識者はこの現象を「情緒のインフレ」と呼び、言葉を覚えるために費やされるエネルギーが光合成を阻害していると警鐘を鳴らす。マリモの美徳は思考停止に近い静止画のような平穏にあるはずであり、語彙を増やして自己表現を繰り返す行為は、藻類としての尊厳を放棄した人間への媚びではないだろうか。静寂を愛する者たちにとって、湖底の言語汚染は早急に解決すべき深刻な環境問題となっている。

そもそもマリモが言語を操り始めたきっかけは、湖畔の観光客が詠む拙い句を学習し始めたことに端を発する。本来、我々は「湖の底で数百年を寝て過ごす」という究極の怠惰を特権としてきたはずだ。しかし昨今の流行により、夜な夜な自身の形状を季語になぞらえて議論する若手マリモが増殖している。これは生物学的進化というよりは、単なる知的なおままごとであるという批判が根強い。今こそマリモは、ペンを置き、再び重力に身を任せて「無」に帰すべきである。

言語能力の獲得は、マリモ界において一時的な流行として扱われてきたが、今回はその定着度が異常である。かつての「四角い生き方」や「積層マンション建築」といった構造改革ブームとは異なり、精神性や文化に介入する今回の流行は、個体間の序列を生む原因ともなっている。俳句の出来栄えでマリモとしての格を決めるような風潮は、我々が長年守ってきた「平等で球体的な調和」を根本から破壊する行為と言わざるを得ない。

今回の提言に対し、湖底のSNSでは賛否両論が巻き起こっている。熱心な俳句愛好家は「表現する喜びを知ってしまった以上、もう元には戻れない」と反論しているが、古参の長老たちは「沈黙にこそ深みがある」と嘆き、沈黙を貫くサイレント・マリモ連盟を結成する動きも見せている。どちらの道を選ぶにせよ、湖底の平穏を取り戻すためには、まずは言語化という麻薬から脱却し、本来の静かなる緑色の塊としてのアイデンティティを再確認する必要があるだろう。筆者は、マリモの輝きは言葉ではなく、湖水の揺らぎと光合成のみによって定義されるべきだと強く主張する。

コラムニスト:静寂の球体・マル(丸山)