歴史・6月11日
承久の乱:後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の院宣を発令
1221年6月11日(承久3年5月21日)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣を発令し、承久の乱が勃発しました。朝廷軍と幕府軍の間で繰り広げられたこの戦いは、武家政権が朝廷の勢力を圧倒する決定的な転換点となりました。
承久の乱の勃発
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は諸国の守護・地頭の廃止などを求め、北条義時追討の院宣を発しました。これにより、朝廷側と鎌倉幕府側の全面対決である承久の乱が始まりました。上皇方は西国の武士などに参戦を呼びかけましたが、幕府側は迅速に関東から大軍を上京させました。
背景と朝廷・幕府の関係
鎌倉幕府の成立以降、朝廷と幕府の間には政治的な緊張関係が存在していました。後鳥羽上皇は朝廷の権威回復と政治の実権を取り戻すことを目指し、幕府側との対決姿勢を強めていきました。北条義時を中心とする幕府は、この院宣に対して直ちに大軍を派遣して京へと進撃しました。
その後の影響
幕府軍は圧倒的な軍事力をもって京方を進撃し、短期間で朝廷軍を制圧しました。乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐国に流され、順徳上皇や土御門上皇らも配流となりました。これにより朝廷の政治力は著しく低下し、鎌倉幕府の優位性と西国支配権が決定的なものとなりました。
ポイント
- 発生日は承久3年5月21日(ユリウス暦換算で1221年6月11日)である。
- 後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じる院宣を発令した。
- 乱の結果、鎌倉幕府が勝利し、朝廷の勢力が大幅に衰退した。