歴史・1月2日
戊辰戦争において、会津藩に対する討伐令が下る
戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦いに至る過程において、朝廷から会津藩に対する討伐令が下された日に関する解説です。慶応4年(1868年)正月2日、明治新政府は旧幕府勢力に対する強硬姿勢を示し、会津藩主・松平容保らへの討伐命令を下しました。この措置は、前年に行われた王政復古の大号令と小御所会議の結果を踏まえたものであり、日本近代史における大きな転換点となりました。
会津藩討伐令の背景
慶応3年12月9日(1867年1月3日)、倒幕派の公卿や諸藩の主導により「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府の廃止と新しい中央政府の樹立が宣言されました。同日夜に開催された小御所会議において、旧幕府側の中心人物であった前会津藩主・松平容保や旧会津藩兵らの処遇が議論されました。会津藩は京都御所の警備などで朝廷から信頼を得ていた時期もありましたが、過激な尊王攘夷派との対立や一会桑政権の主要構成メンバーであったことから、討伐対象として見なされることになりました。
討発令の発出とその影響
慶応4年正月2日、新政府は会津藩に対して討伐令を下しました。前年の鳥羽・伏見周辺における旧幕府軍と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との緊張が高まる中での決定であり、武力衝突はもはや避けられない状況となりました。この討伐令は、会津藩を名目上の「朝敵」とし、東日本における幕府残存勢力との全面戦争である戊辰戦争の本格的な幕開けを決定づける重要な出来事となりました。
ポイント
- 慶応4年正月2日(新暦1868年1月26日)に発生した出来事である。
- 前年の王政復古の大号令および小御所会議の流れを受けて決定された。
- 会津藩主・松平容保らは朝敵とされ、討伐の対象となった。
- この決定は、直後に勃発する鳥羽・伏見の戦いおよびその後の戊辰戦争へと直結した。